く直吉には邪けんにふるまつた。直吉は、それをよく知つてゐたし、また同じ事のむし返へしだと思はないわけにはゆかなかつたが、それでも、何となく、里子に惹かれて、のこのこと出向いて行く、自分の卑しさが、直吉にはたまらないのだ。
「腹が空いたが、此辺に、何か食ふ店でもないのか」
「あら、何時でも、貴方は、私に逢ふ時は、おなかが空いてゐるのね‥‥。おうちで御飯を召し上つていらつしやらないの」
「食べないよ」
「さア、此辺、何処かあるかしら……大塚まで行けば、何かあつたわね、お蕎麦みたいなものでもいゝンでせう?」
「何でもいゝ」
「何を、そんなに、ぷりぷり怒つていらつしやるの?」
「馬鹿にいゝ匂ひがするな。香水をつけてゐるのかい?」
「あら、香水つて、そンなもンぢやないけど、今日久しぶりで髪を洗つて、香油をつけたから匂ふンでせう?」
 里子はさう云つて、後へさがつた肩掛けを、引き上げる次手に、頭髪へ手をやつた。珍しく上の方へ髷を結つてゐるので、襟足がすつきりして、夜目にも首筋が白く見えた。時々、風のかげんで、里子のまはりに、甘い匂ひがただよふ。直吉はもつれつきたいやうな気持ちだつたが、照れてゐるの
前へ 次へ
全83ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング