なつてゐた。その日も、浮舟楼の前の、クロフネ第三楼の息子が出征だとかで、ぎらぎらした絹地の祝出征ののぼりが軍艦型に装飾した家の前へ林立してゐたし、花輪型の円い藁を芯に、沢山の日の丸の小旗が、強い十二月の風に激しくはためいてゐた。――浮舟楼でも、妓達の肉親から、出征者を出すものがあると、得意になつて、妓達は、登楼の客にふいちやうした。直吉は、冨勇を買つた。その日は宵から雨になつた。直吉は、冨勇の部屋で、しみじみと雨の音を聞きながら、初めて女を知つたあとのヒロイツクな感情にとらはれてゐた。神が雄弁に人類の秘密を教へてくれたやうな気もした。――無理な金の工面をして、直吉はその日以来、度々浮舟楼へ冨勇を買ひに通よつたが、遊廓の景気のいゝ絶頂とみえて、冨勇は仲々の売れツ妓になつてゐた。写真の飾られる場所も、段々お職に近いところへせり上つてゆき、冨勇は浮舟楼でも羽ぶりがよかつた。直吉は、時々、冨子に頼まれて、千葉の里子や両親に、為替を送る手紙の代筆を頼まれたりした。
 榎本印刷へ這入つて半年ばかりしてゐるうちに、直吉は召集を受けて、宇都宮の、戸祭分院の衛生兵になつて、二年ばかりの兵隊生活を送つた。直吉は冨子や、千葉の、里子に感傷的な手紙を送つてゐたが、里子の筆で、冨子の死を知らせて来た。急性肺炎で亡くなつたさうである。
 昭和十五年の春、直吉は除隊になり、その頃淀橋区役所のそばで、代書屋をしてゐた父のもとへ直吉は戻つて行つた。弟の隆吉は、少年航空兵に志願して霞ヶ浦に行つてゐて、父と継母だけが残つてゐた。代書の仕事は仲々繁昌してゐて、二階は、登記を頼みに来る客の待合所になり、継母は、この客達に、茶や菓子や丼物の世話をして、幾分かのさや取りをして、馬鹿にならぬ収入をあげてゐた。
 戦争は直吉に色々な影響を与へた。二年ばかりの兵隊生活で、反駁の余地のない下積みのところで要領よくなまける術も直吉は覚えされられた。直吉は、父の仕事を手伝ふのは厭だつたので、知人の世話で、三鷹の飛行機工場の庶務課へ勤めを持つた。新宿の浮舟楼にも、冨勇の思ひ出をしのんでは時々登楼した。里子との文通も久しく途絶え、忘れるともなく忘れてしまひ、軈て日米戦争が始まり、直吉も三鷹の寮に這入つたりして、二年ばかり、あわたゞしい生活を送つたが、或日、久しぶりに淀橋の父のもとへ帰へつてみると、思ひがけなく、冨子の妹の里子から手紙が来てゐた。正月に上京して、浅草で雀と云ふ名前で芸者に出てゐるから、ひまがあつたら寄つてみてくれと云ふ音信だつた。
 里子が芸者になつてゐると知らされて、幾年か前の、牛込若松町の喫茶店の二階での事を、直吉はふつと思ひ出してゐた。黄いろいしごきの帯をして、芸者になりたいと云つた、あの頃の里子の思ひ詰めた言葉を、はつきりと、直吉は記憶にとゞめてゐたのだ。芸者になる事をそんなに思ひ詰めてゐたのかと、直吉は、仲々、たいこ焼きを食べなかつた里子の頑固さを思ひ出して、その一念の強さに驚いてゐた。――直吉はすぐその日のうちに里子を尋づねて浅草へ行つた。まだ昼前であつた。田原町で市電を降り、番地を頼りに探して行つた。旅館とも料理屋とも判らぬ、しもたや風な軒並みの路地の中に、その家はあつた。直吉はカーキ色の仕事服に戦闘帽をかぶり、飛行将校のはくやうな、赤革の短い長靴をはいて、意気な家の格子を開けた。狭い玄関の三畳で、後向きに、一升瓶の中へ米を入れて、鉄の棒ですこんすこんと米つきをしてゐる日本髪の娘がゐた。部屋のなかにはぼおつと薄陽が射してゐる。格子の開く音で、娘は振り返へつたが「あらツ」と云つて、娘は立ちあがつた。案外脊の高い娘だつた。冨子に何となく似てゐたので、
「里子さんですか?」
 と、直吉は赤くなつて率直に聞いた[#「聞いた」は底本では「開いた」]。
「えゝさうです。お手紙着きまして?」
 と、無邪気に、自分の手紙におの字をつけて娘は訊いた。すぐ、出て行くから、外で待つてゐてくれと云ふので、直吉は帽子を被りなおして路地を出て行つた。路地の外の小さい花屋に、芍薬や牡丹の花が硝子越しに溢れるほど見えた。直吉は久しぶりに美しい花を見る気がして、暫くそこへつゝ立つてゐると、十分ばかりもして、里子が黒地に赤い矢絣のモンペ姿で出て来た。並んでみると、脊の高い直吉の肩まであつた。直吉は赤くなつて帽子を取つた。里子は藪睨みの涼しい眼でにつこりして、「私ね、何時か酒匂さんに逢へると思つてゐました」と大人びた事を云つた。
「大きくなつたね」
「さうかしら、別に大きくなつたつて思はないけど、姉さんよりは、これで、ずつと小さいのよ」
 二人は賑やかな方へ歩き出した。狭い町通りだつたが、両側の店からラジオで縄飛び体操の軽やかなメロデイーが流れてゐる。
「私、正月に今の処へ来たンです。どうしても芸
前へ 次へ
全21ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング