ひ返へされはしないのかと、それが心配で、押入れへはひつて泣いてゐるのだと云ふ事だつた。直吉は、少女の心理が判るやうな気がして、押入れへもぐり込んで、人目のないところで、思ひ切り泣きたくなつてゐる冨子の妹が哀れであつた。暫くして、ぎしぎしと押入れの行李を膝で押しつけながら、里子が尻の方から出て来た。菜種色のメリンスのしごき帯が、細い腰の上でゆれながら、後しざりに里子は出て来たが、顔は押入れの方へ向けたまゝ坐つた。赤茶けた、たつぷりした頭髪を三つ組に編んで、長くたらしてゐる。
「困つちやつたわ。急に出て来るンですものね。十五にもなつて、夢みたいな事を考えてゐるンですもの‥‥酒匂さん、何処かいゝところないかしら。私、今日、これから連れて帰へらうかと思つてるのよ。私だつて、仲々田舎へ仕送りつて出来やアしないのに、此のひとつたら、東京へ出てくれば、明日からでも、田舎へお金が送れるみたいな安直な気持ちでゐるンですものね」さう云つて、後向きに坐つてゐる里子の膝へ、冨子はたいこ焼きを二つばかり乗せてやつた。
「姉ちやんだつて、田舎へ送りたいのは山々なンだよ。だから、かうして苦労してンのに、小さいお前がどうして働くンだよ。お金なンて、一銭だつて送れるもンぢやないわよ。それよか、もう一二年、田舎にゐて、お母さんの手伝ひしてやつた方が、どんなに助かるかしれない。――いまに、姉ちやんだつて、いよいよとなれば身売りして、その金を全部送つてやるつもりでゐるンだよ。私はもうこんな商売になつたンだから、体を売る位は何とも思つちやゐないわ。こゝにゐる分には、食べる丈は何とかやつてゆけるンだけど、とても、お金にはならないンだからね。お前もね、世間を知らないから、夢みたいな事を考へて、出て来たンだらうけど、明日の朝早く田舎へ帰へるといゝわ。家の犠牲になるのは、姉ちやん一人だけで沢山だよ。ね、きつと近いうちに、お姉ちやん、沢山金を送つてやるから、里子は、一二年がまんして、お母さんの手伝ひしてやりなよ‥‥」
 後向きに坐つてゐる里子は、返事もしないで、ぢいつとうなだれてゐる。花模様の真岡の袷に、はげちよろけのしごき帯を締めた後姿が、直吉には痛々しく見えた。何時までたつても、身じろきもしない里子の頑固さにじれて、冨子は乱暴に里子の肩をゆすぶつた。
「食べたらどうなのツ、切角波江さんが買つて来たンぢやないかツ、お上りつてば‥‥」
 里子は返事もしない。膝のたいこ焼きは、ごろりと畳へ転んだ。冨子は矢庭にたいこ焼きを掴んでがらりと硝子窓を開けると、そのたいこ焼きを物干の向ふへ、力いつぱい放り投げた。里子は吃驚して、また両手を顔にあててひいつと泣き出した。冨子はそのまゝ荒々しく階段を降りて行つた。波江は里子をなだめて、「素直に食べないから姉さん怒つたのよ。里子ちやんも頑固だねえ」と、針箱を片寄せて、里子の顔を覗き込んだ。軈て泣きやめた里子は、気まり悪さうに、素直に直吉の方へ向きなほつたが、冨子と違つて、案外色の白い少女だつた。切れ長の眼は、少しばかり藪睨みで、額が狭く、眉が濃かつた。鼻筋もとほつて、夜店の人形のやうな顔をしてゐる。
 直吉は壁に凭れて、たいこ焼の御馳走にあづかりながら、波江の読んでゐた雑誌の頁をめくつてゐた。冨子は何処かへ出掛けたとみえて、階下で、誰かが呼んでゐるので、波江が大儀さうに降りて行つたが、客とみえて、カウンターでコツプを洗ふ音がした。
「君、たいこ焼食べろよ」
「ほしくないの」
「東京で何をするつもりで出て来たの?」
「芸者になるつもりで来たンです」
「ほう。‥‥芸者にね、君なら芸者になれるだらうが、そりやア、仲々だね。大変な事だぜ‥‥。下手をするとだまされつちまふよ。そんな世界は、色々な圧力があつて、身動きも出来なくなるンだ」
 里子は、一人の男が、大人あつかひに話をしてくれるのが嬉しかつた。――その翌朝、直吉は里子と約束したとほりに、上野まで里子を送つて行つてやつた。冨子も、かへつてそれを喜んでくれてゐたので、直吉は里子も連れて、上野へ行き、秋の広小路の賑やかなところや、松坂屋などをぶらぶら歩いて、汽車に乗せてやつた。それ以来数年を、直吉は里子に逢ふ事もなく過ぎたのだ。――冨子は間もなく、新宿の遊廓に身を沈めて、冨勇と名乗つて女郎に出てしまつた。直吉はその頃、大学をやめて、牛込の榎本印刷の営業部の事務の方へ勤めを持つてゐたが、或日、波江に逢つて、冨子の落ちつき先きを知ると、直吉は友人を誘つて、初めて新宿遊廓に遊びに行つた。波江に聞いた浮舟楼を探して、入口の写真のなかから冨勇の姿を見つけ出した時は、沈むところへ沈んだものだと直吉は思つた。
 戦争は少しづつ喘息病みのやうなしつこさと変り、街を歩いてみても、カーキ色が多くなり軍人や兵隊が多く歩くやうに
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