いの、只の事で来たんぢやないから開けてツ!」
「ウ‥‥‥‥」
「|今晩は《ボンソアール》! ミッシヱル」
 寒子は、向ふのかすかな唸り声と対かうして根気を出した。
 扉は固く閉つてゐる。
「門番《コンシヱルジヱ》ぢやないのよツ」
「ウ‥‥‥‥」
 つひには、寒子は狂人のやうに扉を叩き出した。すると、思ひがけなく隣室が開いて銀色の頭髪をした美しい女が、「マドマゼール」と小声で寒子をまねいた。
「あの‥‥どうも変なんですよ、先程から、ガス臭くて仕方がないんですが、お友達だつたら立会つて戴いて、門番に開けて貰ひませうか」
 さういはれると、妙に廊下がガス臭かつた。少し大きな声を続けると汗ばんで、フラフラとたふれさうになる。
「ねえ、さうでせう‥‥」
 寒子と銀髪の女は、ミツシヱルの扉に鼻をつけて匂ひをかいだ。
「|今晩は《ボンソアール》!」
「|今晩は《ボンソアール》マダム!」
「ウ‥‥ウ‥‥」
 唸つてゐる人の声だ。ミツシヱルの声だ。寒子も銀髪の女も、七階上から、門番《コンシヱルジヱ》のところまで、どう転び降りたか分らなかつた。門番《コンシヱルジヱ》が鍵束を持つて七階上に走る時、寒子は頭の
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