中の血脈がピンと音をたてゝ切れたやうに感じられた。

 11[#「11」は縦中横] 小さい三角屋根の下には、ミツシヱルが寝台の上に眠つてゐた。
 洗面台の下には、かつて踊場で見た事のあるあの美しい青年がたふれてゐる。
「馬鹿者が‥‥全く恥知らずがツ!」
 一寸の怒りもすぐ第六感をおびやかして、体中をブルブルさせさうな門番《コンシヱルジヱ》は窓といふ窓を開けると、かう云つて怒鳴り散らした。階下からも人達が愕いて上つて来る。
「ミツシヱル! 私よ、寒子よ!」
 だが、一足おくれたのであらうか、あんなに朗らかだつたミツシヱルも青年も息を吹き返さなかつた。
 部屋の中には、かつてロロのつかつた水ブラシと、気味の悪い人形の首がぶらさがつてゐるきりで只美しく清潔であつたのは、二人の体と、二足の靴だけであつた。壁の写真もいつか取りはらはれて、どんなに、一ヶ月の間、ミツシヱルの生活に苦悩があつたのか、あまりに部屋の中は何もなさすぎてゐた。
「何時になつたら敷物のある、花束のある、紅茶茶碗のある部屋が持てるのかしら」と云つてゐたミツシヱル!

 寒子は巡査の来ない間に、街の通へ、あんなにミツシヱルの欲しがつてゐた花束を買ひに出た。
 だが白暮はつひに物思ひのまゝ暗くなつてしまつてゐる。どの店も閉つてゐた。花屋の硝子戸の中には高洒[#「高洒」はママ]な、薔薇や蘭の花が並んでゐるが、こゝも網戸が降りてゐた。
 寒子は、妙に胸の薄さを感じる。
 静物に買つた、薔薇の一束を部屋から持ち出すと、まるで泣いた後のやうな涼しい気持になつて街に急いだ。
「皆々、孤独人なのだ、ミツシヱルだつて、ロロだつて、あの男だつて、――」
 ピストルを射つたあの男は、ピストルを射つまで、心のやり場に困つたのに違ひない。その心のやり場に、ひととき私の唇を利用したところで、何でとがめる事があらう。まして泣いて切ながる必要もない。楽しみに私は私で絵を描けばいゝぢやないか、寒子は、何気なく眉をあげた。二日間も部屋に匂つた白薔薇がハラ/\と蝶々のやうに舗道にあふれて散つた。

[#ここから3字下げ]
雨は真珠か
夜明の霧か
それとも私の
しのびなき
[#ここで字下げ終わり]

 ミツシヱルを愛して、雨の唄を教へた東洋の男も、今ごろは百号大のカンヴァスを広げて、妻君の裸体をでも描いてゐるのかも知れない。
一切は孤独なしのびな
前へ 次へ
全14ページ中13ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング