所も分るだらうし、何か様子が知れよう」
寒子は自動車の走りやうがおそいと云つては、コツコツ硝子戸を叩いて、運転手を厭がらせた。
――あの長い白暮だ。
九時ごろであらう閉門の鐘が寺の塔から流れて来る。
自動車から降りると、寒子は「ピュウピュ、ピュウピュ」と口笛でミツシヱルを呼んでみたが、何の反響もない。
門番《コンシヱルジヱ》は、「今朝から降りて来ないよ」とぶつきら棒に云ふきりだ。
「別に病気でもないの?」
「貧乏が病気さね、――若い男とゐるなら、その貧乏もおかまひなしだらうが、俺んとこだつて、空気の上に家を建てゝゐるんぢやないんだから、いゝかげんしびれが切れるよ」
相変らず、ミツシヱルも困つてゐるんだ。それなら、それのやうに、何故借りに来ないのだらうか薄暗がりを手探りで、一段一段上に上つて行くことが寒子には切なかつた。
低い天井裏の廊下に、やつと燐寸をすつて番号を探した。
「ミツシヱル!」
「‥‥‥‥」
「|今晩は《ボンソアール》!」
「‥‥‥‥」
「|今晩は《ボンソアール》!」
「ウ‥‥‥‥」
「ミツシヱル! 私よ、寒子よ、一寸開けて!」
「‥‥‥‥」
「居るんぢやないの、只の事で来たんぢやないから開けてツ!」
「ウ‥‥‥‥」
「|今晩は《ボンソアール》! ミッシヱル」
寒子は、向ふのかすかな唸り声と対かうして根気を出した。
扉は固く閉つてゐる。
「門番《コンシヱルジヱ》ぢやないのよツ」
「ウ‥‥‥‥」
つひには、寒子は狂人のやうに扉を叩き出した。すると、思ひがけなく隣室が開いて銀色の頭髪をした美しい女が、「マドマゼール」と小声で寒子をまねいた。
「あの‥‥どうも変なんですよ、先程から、ガス臭くて仕方がないんですが、お友達だつたら立会つて戴いて、門番に開けて貰ひませうか」
さういはれると、妙に廊下がガス臭かつた。少し大きな声を続けると汗ばんで、フラフラとたふれさうになる。
「ねえ、さうでせう‥‥」
寒子と銀髪の女は、ミツシヱルの扉に鼻をつけて匂ひをかいだ。
「|今晩は《ボンソアール》!」
「|今晩は《ボンソアール》マダム!」
「ウ‥‥ウ‥‥」
唸つてゐる人の声だ。ミツシヱルの声だ。寒子も銀髪の女も、七階上から、門番《コンシヱルジヱ》のところまで、どう転び降りたか分らなかつた。門番《コンシヱルジヱ》が鍵束を持つて七階上に走る時、寒子は頭の
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