まるで日本の田舎に見る日曜学校のやうな造りで、通行人は、たまたまこのみすぼらしい建物を忘れて通つてしまふ。――昼間でさへ忘れられがちな、この本部は、夜になると、誰がこはしたのか――家の前の街灯はいつも灯火がはひらないので、ほとんど誰の注意も惹かないで過ぎる。
そのやうな共産党本部なのに――今日は明明と灯火がもれて、天使のやうにマントを羽織つた巡査が二人、暗い地下室から、帽子をかぶらない女の腕を握つて通へ出て来た。
灯火のついた二階の硝子窓はいつぱいに開いて、党員の残留組なのであらう。たくみなロシヤ語でこの無帽で引かれて行く一人の女に、拍手をおくり、歌をうたつて街角に折れるまで、狂人のやうなさわぎを止めなかつた。門で見張りをしてゐる巡査も時々二階を見上げながら笑つてゐるだけで、暫時すると、前よりもいつそう静かな暗が来た。
寒子は、ロロから託された品物をパンタロンと一緒に鞄の中へ入れると、プラス・サン・ミツシヱルの燕街へ自動車を走らせた。
星が美しく降るやうであつた。
酔つぱらつた学生が伸びあがつては、自分のベレーを街灯の頭へ引つかけようとしてゐた。寒子はその街灯の前で自動車を降りるとアパッシュの門番のゐる、牢屋のキャバレーの中へ、赤いハンカチの男に案内をして貰つた。
蜜柑[#「蜜柑」は底本では「密柑」]箱のやうな舞台の上では、十二三の娘の子が、人参のやうな長靴をはいて、ビギン、ビギンといふ踊ををどつてゐた。
ギターと風琴が石の天井にコダマして、まるで水の底のやうに涼しい音をしてゐたし、女達も男達もいゝかげん煙草のもやの中に酔つぱらつてゐた。
顔の長い顎髭の男、これが寒子のさがす男だ。――だがすぐ寒子の眼の中に、その男の顔は笑ひかけてゐた。カンテラの下の卓子《テーブル》に眠つたやうに凭れて、梅の実のはひつたカクテルを呑んでゐる。
少しの間、一ツの卓子に沈黙つて坐りあつてゐた。――だがフッと思ひついて寒子が煙草を出すと眠つてゐたやうな、髭の男は、周章てブリッケの火を寒子の煙草につけてくれた。
それが機会なのだ。
寒子は別れたロロにそんな何でもない役割を課せられてゐたのであつた。
「有難う! ロロは国外追放になりましたよ」
寒子から、一つの書類束を受け取ると、髭の男は冷たく美しい眼を伏せた。
「ロロはフランス人ぢやないんですか?」
「ヱストニヤ生れの
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