きだろうけれど、もしも私に、恋愛がみつかったならば、私は恋人に身心をささげながら妙なかしゃく[#「かしゃく」に傍点]を感じるだろう。私たちの生きている世代ではこれは不貞|至極《しごく》なことだからだ。もしも、私にこんなことがあったら、何等《なんら》悲劇のともなわない恋愛などと口にしていても芯《しん》ではひどいかしゃく[#「かしゃく」に傍点]を感じるのはあたりまえの事だ。ひとの旦那様の恋愛と、ひとの奥様の恋愛をくらべてみると、月とすっぽんのような違いだ。ひとの奥様は恋をしてはならないのだ。支那へ行くと、目隠しをされた牛が水車をまわしている。牛を追う男は、時々|煙草《たばこ》を出して吸ったり、空を見上げたりして、眼を愉しませている。さしずめ旦那様はその牛を追う男で、女は目隠しをされた牛のようなものだろう。牛も目隠しをとって、四囲《あたり》をながめさして貰いたいものだ。
美しくて朗らかで、誰にも迷惑を及ぼさない恋愛は童児たちでなければ望めないことかも知れない。精神的なものがあふれて来るほど、恋愛は悲劇的でものがなしくなって来る。恋愛の微醺とはどこの国へ行ったらあるのだろうか……。
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