恋愛の微醺
林芙美子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)幼《おさ》ない頃の
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)不貞|至極《しごく》なこと
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「しげき」に傍点]
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恋愛と云うものは、この空気のなかにどんな波動で飛んでいるのか知らないけれども、男が女がこの波動にぶちあたると、花が肥料を貰ったように生々として来る。幼《おさ》ない頃の恋愛は、まだ根が小さく青いので、心残りな、食べかけの皿をとってゆかれたような切ない恋愛の記憶を残すものだ。老《ふ》けた女のひとに出逢うと、娘の頃にせめていまのようなこころがあったらどんなによかったでしょうと云う。だから、心残りのないように。深尾さんの詩に、むさぼりて 吸へどもかなし 苦《にが》さのみ 舌にのこりて 吸へどもかなし、ばらの花びら こんなのがある。どんな新らしいと云う形式の恋愛でも、吸へどもかなし 苦《にが》さのみで、結局、魂の上に跡をとどめるものは苦《にが》さのみじゃないだろうか。私は新らしいと云う恋愛の道を知らない。新らしいと云うのは内容のかわった恋愛と云う意味ではなく、整理のついた恋愛を云うのかも知れないけれども、すぐ泥にまみれたかたちになってしまう。――懶惰《らんだ》で無気力な恋愛がある。仕事の峠《とうげ》に立った、中年のひとたちの恋愛はおおかたこれだ。
この間も、ある女友達がやって来て、あなたはいま恋愛をしていないのかと訊《き》く。恋愛もいいけれど怖いようなと云うと、その友達は恋愛になまけてしまってはいけない、恋をすれば、仕事も逞《たく》ましくなり、躯《からだ》も元気になるものだと話していた。
その友達の話して行った中、こんな例がある。子供が二人あって、良人《おっと》に死別した絵を描く若い寡婦が、恋の気持ちを失って来ると、心がだんだん乾いて来て、生活がみじめになって、絵もまずくなり、容貌も衰えて、どうして生きていいのか解らなかったのだけれども、ふとすきな青年をみつけて、その男と仲よくなってしまったら、急に容貌も生々と美しくなり、絵もうまくなり、そうして、何より面白いことには、二人の子供を叱《しか》らなくなったと云うことだ。恋愛のない時分は、いつも苛々《いらいら》していて、朝から晩まで子供ばかり叱っていたのだと云う。
道徳の上から律してゆけば、この未亡人の恋愛はどんな風なものなのか、私には解らないけれども、これは可憐《かれん》な話だとおもう。恋人に逢った翌《あく》る日は、てきめんに生活が豊富になると云うのだ。この若い寡婦はまた、その男とは結婚しないと云う約束のもとに二、三年も濃《こま》やかな愛情をささげおうていると云うことだが、こんな恋愛は新らしいとは云えないだろうか。結婚をするといっぺんに厭《いや》になりそうな男だけれども、恋愛をしていると、何かしげき[#「しげき」に傍点]されて清々《すがすが》しいのだと云うことだ。――十代の女の恋愛には、飛ぶ雲のような淡さがあり、二十代の女の恋愛には計算がともない、三十代の女には何か惨酷《ざんこく》なものがあるような気がする。
本当の恋愛とはどんなのをさして云うのだろう。サーニンのようなものを云うのだろうか、エルテルの悩みのようなものだろうか、それとも、みれん、女の一生、復活、春の目ざめ、ヤーマ、色々な恋愛もあるけれども、どれもこれも古くさくてぼろぼろのようだが、また、考えれば、どれもこれも新らしいとも云える。――恋愛をしてごらんなさい生々するから、そう云った友達の言葉が、私につぶて[#「つぶて」に傍点]になって飛んで来る。すると、いままで良人の蔭で目をつぶっていたような気持ちが、急に生々とたちあがって羅紗《らしゃ》の匂いの新らしい背広姿に好意を持ったり、襟足《えりあし》の美しさや、時には、よその男のもっている純白なハンカチの色にさえ動悸《どうき》のするような一瞬があるのだ。そうして、その動悸は肉体を苛《いた》めつけるような苦しいものがともなっている場合がある。よその奥さんの気持ちの中に、こんな気持《こころ》はミジンも湧いて来ないものだろうか。結婚をして、一人の男を知ると十七、八の娘のころのように雲のような恋愛はいやになってしまう。恋愛の気持ちのあるたびに、いちいち良人と別れるわけにもゆかないけれども……。
十年も連れ添うた夫婦で云えば、良人の方には色々なかたちで愉しみの世界があるけれども、奥さんはどんな風にしてとしをとってゆくのだろう。結婚をしているひとたちの恋愛には交通巡査がいる。あぶなくないように恋をしなければならぬ。あやまってよそのくるまに突きあたろうものなら、入院費もかかるし、家族も仕事に手がつかない。交通の整
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