理された恋愛は、悪いことだとはおもわない。私は現在ひとの奥さんだけれど、しみじみこんな事を考える折がある。旦那様に対して申しわけのないことだけれども、旦那様だって何を考えているか判ったものじゃない。きびしい眼からみれば、ふしだらな事かも知れないけれども、この世にあふれている無数の夫婦者の中に、こんな気持ちのない夫婦者はおそらく一人もありはしないだろう。一人の処女が結婚をして、初めてよその男に恋をするのは、あれはどうした事なのだろうか。見合結婚をして、一人の男の経験が済むと、何か一足《いっそく》とびに違った世界に眼がとどいてゆく。良人の友達の中に、あるかなきかの恋情を寄せてみたりする場合もある。そのあるかなきかの恋情は、ほんの浮気のていど[#「ていど」に傍点]で、家庭を不幸にするものじゃないとおもうがどうでしょうか。
良人と添寝《そいね》しながらも、なおかつよその男の夢を見るのだ。その夢の中の男をしばって貰うわけにはゆかない。これも、変型だが、恋愛の一つだろう。たとえクリスチャンの奥さんでも、こんな夢の一つ二つの記憶はあるに違いない。交通整理のゆきとどいた町には怪我人が少ないように、恋愛の道には整理が必要だ。
理想的な恋愛を私に云わしむれば、およそ悲劇的な影のない恋愛がのぞましい。私の知人にこんな例がある。その男は五十歳の男だ。奥さんと大学に行く子供がある。非常に平和な家庭で、波風一つたたない生活だそうだ。だが、その五十になる男のひとには、奥さんと同じ年配の恋人があり、ちょうど十五年も恋愛関係がつづいていると云うのだ。何と云う愕《おどろ》くべき旦那様なのだろう。その十五年の間に、恋人はある商人の家に嫁に行ったが、それでも一年に一ぺんは逢うと云うのだ。七夕のようだとその男のひとは笑っていたが、私は吃驚した。奥さんはただの一度も旦那様をうたがわないし、十五年も恋人と逢いつづけているとは露ほども知らないのだと云う。こんな大嘘つきの旦那様を持った奥さんは幸せと云っていいのか不幸と云っていいのかわからないけれども、私から云えば、おそらく、幸福なひとのような気がする。おそらく、その男のひとは、棺桶《かんおけ》へ這入《はい》るまで、奥さんをだましおおせるに違いあるまい。奥さんは良人が死んでからも、あのひとはいいひとだったと幸せに思っている事だろう。その男のひとの云うのには、恋人があったから、至れりつくせりの真情をもって妻を愛しておられた。だから奥さんは浮気心をおこすひまがないのだそうだ。毎日洗濯をしたり、子供と散歩したりして、幸福らしいと云うのだ。では、その恋人の気持ちはどんなものでしょうと尋ねると、これもまた、十五年の長い歴史があるから、何も云わなくても、かなしみもよろこびも判りあい、不貞だとはおもっていないと云うことだ。恋愛を悲劇にしてしまうのは、恋愛に甘くなるからだろう。正直になろうとしたり、その恋愛に純粋になろうとすることは、さしさわりのない人間同士の間のことだ。未婚の男女の恋愛には、既婚者のように徹するような思慮があるだろうか。私は解らなくなってしまう。
恋愛に就いて、正直も純粋も大切だとはおもうが、もっと大切なことは、自分の周囲に火《ひ》の粉《こ》を散らさぬ用心だろう。つつましい朗《ほが》らかな恋愛だったら、不貞と云いきれないような気がする。だが、かなしいことには人間同士だから、よっぽど用心しないことには泥まみれになり、あたりの人に笑われなければならない結果になることもあろう。
恋愛をすれば、勿論《もちろん》肉体も精神もそれにともなってゆくべきだろうけれど、もしも私に、恋愛がみつかったならば、私は恋人に身心をささげながら妙なかしゃく[#「かしゃく」に傍点]を感じるだろう。私たちの生きている世代ではこれは不貞|至極《しごく》なことだからだ。もしも、私にこんなことがあったら、何等《なんら》悲劇のともなわない恋愛などと口にしていても芯《しん》ではひどいかしゃく[#「かしゃく」に傍点]を感じるのはあたりまえの事だ。ひとの旦那様の恋愛と、ひとの奥様の恋愛をくらべてみると、月とすっぽんのような違いだ。ひとの奥様は恋をしてはならないのだ。支那へ行くと、目隠しをされた牛が水車をまわしている。牛を追う男は、時々|煙草《たばこ》を出して吸ったり、空を見上げたりして、眼を愉しませている。さしずめ旦那様はその牛を追う男で、女は目隠しをされた牛のようなものだろう。牛も目隠しをとって、四囲《あたり》をながめさして貰いたいものだ。
美しくて朗らかで、誰にも迷惑を及ぼさない恋愛は童児たちでなければ望めないことかも知れない。精神的なものがあふれて来るほど、恋愛は悲劇的でものがなしくなって来る。恋愛の微醺とはどこの国へ行ったらあるのだろうか……。
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