があったから、至れりつくせりの真情をもって妻を愛しておられた。だから奥さんは浮気心をおこすひまがないのだそうだ。毎日洗濯をしたり、子供と散歩したりして、幸福らしいと云うのだ。では、その恋人の気持ちはどんなものでしょうと尋ねると、これもまた、十五年の長い歴史があるから、何も云わなくても、かなしみもよろこびも判りあい、不貞だとはおもっていないと云うことだ。恋愛を悲劇にしてしまうのは、恋愛に甘くなるからだろう。正直になろうとしたり、その恋愛に純粋になろうとすることは、さしさわりのない人間同士の間のことだ。未婚の男女の恋愛には、既婚者のように徹するような思慮があるだろうか。私は解らなくなってしまう。
恋愛に就いて、正直も純粋も大切だとはおもうが、もっと大切なことは、自分の周囲に火《ひ》の粉《こ》を散らさぬ用心だろう。つつましい朗《ほが》らかな恋愛だったら、不貞と云いきれないような気がする。だが、かなしいことには人間同士だから、よっぽど用心しないことには泥まみれになり、あたりの人に笑われなければならない結果になることもあろう。
恋愛をすれば、勿論《もちろん》肉体も精神もそれにともなってゆくべきだろうけれど、もしも私に、恋愛がみつかったならば、私は恋人に身心をささげながら妙なかしゃく[#「かしゃく」に傍点]を感じるだろう。私たちの生きている世代ではこれは不貞|至極《しごく》なことだからだ。もしも、私にこんなことがあったら、何等《なんら》悲劇のともなわない恋愛などと口にしていても芯《しん》ではひどいかしゃく[#「かしゃく」に傍点]を感じるのはあたりまえの事だ。ひとの旦那様の恋愛と、ひとの奥様の恋愛をくらべてみると、月とすっぽんのような違いだ。ひとの奥様は恋をしてはならないのだ。支那へ行くと、目隠しをされた牛が水車をまわしている。牛を追う男は、時々|煙草《たばこ》を出して吸ったり、空を見上げたりして、眼を愉しませている。さしずめ旦那様はその牛を追う男で、女は目隠しをされた牛のようなものだろう。牛も目隠しをとって、四囲《あたり》をながめさして貰いたいものだ。
美しくて朗らかで、誰にも迷惑を及ぼさない恋愛は童児たちでなければ望めないことかも知れない。精神的なものがあふれて来るほど、恋愛は悲劇的でものがなしくなって来る。恋愛の微醺とはどこの国へ行ったらあるのだろうか……。
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