落合町山川記
林芙美子

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)和田堀《わだぼり》の

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一、二|町《ちょう》の

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから2字下げ]
−−

[#ここから2字下げ]
遠き古里の山川を
思ひ出す心地するなり
[#ここで字下げ終わり]

 私は、和田堀《わだぼり》の妙法寺の森の中の家から、堰《せき》のある落合川《おちあいがわ》のそばの三輪の家に引越しをして来た時、はたき[#「はたき」に傍点]をつかいながら、此様なうたを思わずくちずさんだものであった。この堰の見える落合の窪地に越して来たのは、尾崎翠《おざきみどり》さんという非常にいい小説を書く女友達が、「ずっと前、私の居た家が空《あ》いているから来ませんか」と此様に誘ってくれた事に原因していた。前の、妙法寺のように荒れ果てた感じではなく、木口《きぐち》のいい家で、近所が大変にぎやかであった。二階の障子《しょうじ》を開けると、川添いに合歓《ねむ》の花が咲いていて川の水が遠くまで見えた。
 東中野の駅までは私の足で十五分であり、西武線中井の駅までは四分位の地点で、ここも、妙法寺の境内《けいだい》に居た時のように、落合の火葬場の煙突がすぐ背後に見えて、雨の日なんぞは、きな臭《くさ》い人を焼く匂《にお》いが流れて来た。
 その頃、一帖《いちじょう》七銭の原稿用紙を買いに、中井の駅のそばの文房具屋まで行くのに、おいはぎ[#「おいはぎ」に傍点]が出ると云う横町《よこちょう》を走って通らなければならなかった。夜など、何か書きかけていても、原稿用紙がなくなると、我慢して眠ってしまう。ほんの一、二|町《ちょう》の暗がりの間であったが、ここには墓地があったり、掘り返した赤土のなかから昔の人骨が出て来たなどと云う風評があったり、また時々おいはぎ[#「おいはぎ」に傍点]が出ると聞くと、なかなかこの暗がり横町は気味の悪いものであった。その頃はまだ手紙を出すのに東京市外|上落合《かみおちあい》と書いていた頃で、私のところは窪地にありながら字上落合三輪[#「字上落合三輪」に傍点]と呼んでいた。その上落合から目白寄りの丘の上が、おかしいことに下落合と云って、文化住宅が沢山並んでいた。この下落合と上落合の間を、落合川が流れているのだが、(本当は妙正寺川と云うのかも知れぬ)この川添いにはまるで並木のように合歓の木が多い。五月頃になると、呆《ぼ》んやりした薄紅の花が房々と咲いて、色々な小鳥が、堰の横の小さい島になった土の上に飛んで来る。
 まず引越しをして来ると、庭の雑草をむしり、垣根をとり払って鳳仙花《ほうせんか》や雁来紅《がんらいこう》などを植えた。庭が川でつきてしまうところに大きな榎《えのき》があるので、その下が薄い日蔭になりなかなか趣があった。私は障子を張るのが下手なので、十六枚の障子を全部尾崎女史にまかせてしまって、私は大きな声で、自分の作品を尾崎女史に読んで聞いて貰ったのを覚えている。尾崎さんは鳥取の産で、海国的な寂しい声を出す人であった。私より十年もの先輩で、三輪の家から目と鼻のところに、草原の見える二階を借りてつつましく一人で住んでいた。この尾崎女史は、誰よりも早く私の書くものを愛してくれて、私の詩などを時々|暗誦《あんしょう》してくれては、心を熱くしてくれたものであった。妙法寺に住んでいた頃、やっとどうやら私の原稿が売れ出して来ていたのだが、この家へ越して一ヶ月すると、私は放浪記を出版する事になった。原稿が売れると云っても、まだまだ国へまで送金どころか、自分たちの口が時々|干上《ひあが》るのが多くて、私はその日も勤め口を探して足をつっぱらして帰ったのであった。玄関の三和土《コンクリート》の濡れた上へ速達が落ちていたのを、めったにない事だと胸をドキドキさせて読んで行くと、「放浪記出版」と云う通知なのであった。暫《しばら》くは私は眼がくらくらして台所で水をごくごく飲んだものだ。嘘のような気がした。誰かが悪戯《いたずら》したのだろうと思った。七、八年と云う長い間、私の原稿などは満足に発表された事なんぞなかったのだ。原稿を持って雑誌社へ行って、電車賃もないのでぶらぶら歩いて帰って来ると、時に、持って行った原稿の方がさきまわりして速達で帰っている事があった。
 この放浪記では、何だか随分印税を貰ったような気がしてうれしかった。長い間の借金や不義理を済ませて、私は一人で支那に遊びに行った。ハルピンや、長春、奉天、撫順、金州、三十里堡、青島、上海、南京、杭州、蘇州、これだけを約二ヶ月でまわって、放浪記の印税はみんなつかい果たして、上落合の小さい家に帰って来た。帰って来ると鳳仙花はみな弾《はじ》けていて、雁来紅ももう終りであった。その年の十二月には、東京朝日の夕刊小説を書かして貰った。雪の降りそうな夜更《よふ》けの事で、私は拾銭玉を持って風呂へでも行って来ようとしていた時であった。朝日の時岡さんが、「芙美子さん今日はいい知らせを持って来ました」と云って上って来られた。私は大馬力でその夕刊小説を書いた。暮れの二十八日に貰った千円以上の金に、私は馬鹿のようになってしまって、イの一番に銀座の山野《やまの》でハンガリアン・ラプソディのディスクを買った。天金《てんきん》で一番いい天麩羅《てんぷら》を下さいと云って女中さんに笑われた。そして一番いい自動車に乗って帰ろうと思って、あんまりよくないのに乗って家まで帰ったのを覚えている。
 家には、夫や、二、三人の絵描きさんたちが居た。みんな貧乏で、お正月は支那そば会をしようと云っていた連中も、私の持って帰った札束を見ると、みんな「憂鬱《ゆううつ》じゃのウ」と云ってひっくりかえってしまった。
 お正月はこの貧しく有望な絵描きたちを招《よ》んで、実に壮大な宴を張った。国には二百円も送ってやり「あッ!」と云う両親の声が東京まできこえて来たような気がした。両親は私の書くものを一番ケイベツしていたので、その申しひらきの見得《みえ》もありなかなかに人生ユカイなものの一つであったのだ。
 家の前には井戸があった。朝夕この井戸はにぎわって、子供たちが沢山群れていた。私は玄関の前に茣蓙《ござ》を敷いて子供たちと飯事《ままごと》をして遊んだ。一生のうち此様な幸福な事はないと思った。夕刊小説は出来がよくなかったが、色々な人が金を貰いに来た。私は子供たちと茣蓙の上で遊びながら、お金を貰いに、本所《ほんじょ》から歩いて来たとか深川から歩いて来たとか云う人たちに、「林さんはさっき出て行きましたよ」と嘘を云った。中には、貴女《あなた》は女中さんですかお妹さんですかと訊くひともあったが、写真に出ている顔は満足に私に似ているのがないので、誰も不思議がりもせず帰って行った。
 初めの頃は正直に一円二円と上げていたのだが、日に三、四人も来られると、まるで話しあわされたようで、もう不快で仕方がなかった。餅や菓子をくれと云う人の方がよっぽど好意がもてた。
 落合川をへだてた丘の下落合には、片岡鉄兵《かたおかてっぺい》さんや、吉屋信子《よしやのぶこ》さんが住んでいた。鉄兵さんにはよく中井の駅の通りで会った。吉屋さんは、玄関の前に井戸のある私の陋屋《ろうおく》に時々おとずれて面白い話をしてゆかれた。実際陋屋と呼ぶにふさわしく、玄関の前に井戸があるので、家の前は水の乾くひまもなくて、訪ねて来る人たちは足元を要心しなければならない。新聞社で写真を撮りに来ると、外に写す場所がないので、よく井戸を背景にして写して貰った。
 前は二軒長屋の平屋《ひらや》で、砲兵工廠《ほうへいこうしょう》に勤める人と下駄の歯入れをする人、隣家は宝石類の錺屋《かざりや》さんで、三軒とも子供が三、四人ずついた。その子供たちが、皆元気で、家に飼っていた犬の毛をむしりに来て困った。
 この落合川に添って上流へ行くと、「ばつけ」と云う大きな堰があった。この辺に住んでいる絵描きでこの堰の滝のある風景を知らないものはもぐり[#「もぐり」に傍点]だろうと思われるほど、春や夏や秋には、この堰を中心にして、画架を置いている絵描きたちが沢山いた。中井の町から沼袋への境いなので、人家が途切れて広漠たる原野が続いていた。凧《たこ》をあげている人や、模型飛行機を飛ばしている人たちがいた。うまごやしの花がいっぱいだし、ピクニックをするに恰好の場所である。この草原のつきたところに大きな豚小屋があって、その豚小屋の近くに、甲斐仁代《かいひとよ》さんと云う二科の絵描きさんが住んでいた。御主人を中出三也《なかでさんや》さんと云って、この人は帝展派だ。お二人とも酒が好きで、画壇には二人とも古い人たちである。私はこの甲斐さんの半晴半曇《はんせいはんどん》な絵が好きで、ばつけの堰を越しては豚小屋の奥の可愛いアトリエへ遊びに行った。
 夕方など、このばつけの板橋の上から、目白商業の山を見ると、まるで六甲《ろっこう》の山を遠くから見るように、色々に色が変って暮れて行ってしまう。目白商業と云えばこの学校の運動場を借りてはよく絵を書く人たちが野球をやった。のんびり[#「のんびり」に傍点]講などと云うハッピを着た連中などの中に中出さんなんかも混っていて、オウエンの方が汗が出る始末であった。
 来る人たちが、落合は遠いから大久保あたりか、いっそ本郷あたりに越して来てはどうかと云われるのだけれど、二ヶ月や三ヶ月は平気で貸してくれる店屋も出来ているので、なかなか越す気にはなれない。それに散歩の道が沢山あるし、哲学堂も近かった。春の哲学堂の中は静かで素敵だ。認識への道の下にある、心を型どった池の中にはおたま杓子《じゃくし》がうようよいて、空缶《あきかん》にいっぱいすくって帰って来たものだ。

 支那に遊んだ翌年の秋、私は一冊の本を出して欧洲へ一ヶ年の旅程で旅立った。巴里《パリ》へいっても倫敦《ロンドン》へいっても、よく、ばつけの白い堰や、哲学堂のおばけの夢なんぞを見て困った。もう帰れないのではないかと思った欧洲から、去年の夏、また上落合の榎のある家に帰って来た。
 庭にはダリアや、錯甲や、カカリアなどの盛りで、榎はよく繁って深い影をつくっていた。その頃、尾崎さんもケンザイで鳥取から上京して来ていた。相変らず草原の見える二階部屋で、私が欧洲へ旅立って行く時のままな部屋の構図で、机は机、鏡台は鏡台と云う風に、ちっとも位置をかえないで畳《たたみ》があかくやけついていた。障子にぴっちりつけて机があった。その机の上には障子に風呂敷が鋲《びょう》で止めてあった。この動かない構図の中で、尾崎さんはコツコツ小説を書いていたのに、私はうつり気なのか支那へ行ってみたり、欧洲へ行ってみたり、そして部屋の模様をかえてみたりした。十畳《じゅうじょう》位の部屋に小さい机が一ツに硯箱《すずりばこ》のいいのでもあったらと云うのが理想なのだが、三輪の家は物置きのようにせまくて、ちょっと油断しているとすぐ散らかって困った。――私は欧洲から帰って来ると、すぐまた戸隠山へ出掛けた。山で一ヶ月を暮らして帰って来ると、尾崎さんは躯《からだ》を悪くして困っていた。ミグレニンの小さい罎《びん》を二日であけてしまうので、その作用なのか、夜になるとトンボが沢山飛んで行っているようだと云ったり、雁が家の中へ這入って来るようだと、夜更けまで淋しがって私を離さなかった。
 眼の下の草原には随分草がほうけてよく虫が鳴いた。「随分虫が鳴くわねえ」と云うと、「貴女も少し頭が変よ、あれはラヂオよ」と云ったりした。私も空を見ていると本当にトンボが飛んで来そうに思えた。風が吹くと本当に雁が部屋の中に這入って来そうに思えた。ヴェランダに愉しみに植えていた幾本かの朝顔の蔓《つる》もきり取ってしまってあった。そんな状態で躰《からだ》がつかれていたのか、尾崎さんはもう秋になろうとしている頃、国から出て来られたお父さんと鳥取へ帰って行かれた。
次へ
全3ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング