尾崎さんが帰って行くと、「この草原に家が建ったら厭《いや》だなア」と云っていたのを裏切るように、新《あた》らしい三拾円見当の家が次々と建っていって、紫色の花をつけた桐の木も、季節の匂いを運んだ栗の木も、点々としていた桃の木もみんな伐《き》られてしまった。
尾崎さんが鳥取へ帰って行ってから間もなく、私は吉屋さんの家に近い下落合に越した。落合はやっぱり離れがたいのか、前の家からは川一ツへだてた近さであった。誰かが植民地の領事館みたいだと云ったが、外から見ると、丘の上にあって随分背が高く見えた。庭が広くて庭の真中には水蜜桃《すいみつとう》のなる桃の木の大きいのが一本あった。井伏鱒二《いぶせますじ》さんは、何もほめないでこの桃の木だけをほめて行った。三輪にいる頃も、草花を植える趣味をひどく軽蔑して、何でも木を植えなさいと云っていたが、案のじょう、下落合の家に来ても、桃は春のうちに枝をおろしてやれとか、なかなかコウシャクがむずかしかった。
ここへ移って来てからも色々な人たちが来た。女流作家の人たちも沢山来てくれた。皆若い人たちで暗く長い私の文運つたなかりし頃の人たちと違って、もう一年か二年で頭角《とうかく》を現わした華《はなや》かな人たちばかりであった。
鳥取へ帰った尾崎さんからは勉強しながら静養していると云う音信があった。実にまれな才能を持っているひとが、鳥取の海辺に引っこんで行ったのを私は淋しく考えるのである。
時々、かつて尾崎さんが二階借りしていた家の前を通るのだが、朽《く》ちかけた、物干しのある部屋で、尾崎さんは私よりも古く落合に住んでいて、桐や栗や桃などの風景に愛撫されながら、『第七官界彷徨』と云う実に素晴らしい小説を書いた。文壇と云うものに孤独であり、遅筆で病身なので、この『第七官界彷徨』が素晴らしいものでありながら、地味に終ってしまった、年配もかなりな方なので一方の損かも知れないが、この『第七官界彷徨』と云う作品には、どのような女流作家も及びもつかない巧者なものがあった。私は落合川に架したみなかばし[#「みなかばし」に傍点]と云うのを渡って、私や尾崎さんの住んでいた小区《まち》へ来ると、この地味な作家を憶《おも》い出すのだ。いい作品と云うものは一度読めば恋よりも憶い出が苦しい。
私の家の出口には、中井ダンスホールと云うのがある。まだ一度も行った事はないが、なかなかさかっているのだろう。門を這入ると足のすれあっている音や、レコードが鳴っている。――私の家はかなり広いので、(セットの貧弱なのが心残りなのだが)、あんまり漠然としているので、そうそう旅をしなくなった。あっちの片隅《かたすみ》、こっちの片隅と自分の机をうつして行くのだが、こんな大きな家で案外安住の書斎がない。時に台所の台の上で書いたり、茶の間で書いたりして旅へ出たような気でいたりした。
ここの家からは中井の駅が三分位になり、吉屋さんの家が近くなった。近くなったくせに訪問しあうことはまれで、なかなかヨインのある御近所だと思っている。東中野へ出て行く道には、大名笹《だいみょうささ》で囲まれた板垣直子《いたがきなおこ》さんの奥ゆかしい構えがある。ひところ、大田洋子《おおたようこ》さんも落合の材木屋の二階にいたのだが、牛込《うしごめ》の方へ越してしまった。中井の駅の前には辻山春子《つじやまはるこ》さんの旦那さんがお医者を開業されたし、神近市子《かみちかいちこ》女史も落合には古くからケンザイだ。これで、なかなか女流作家が多い。
落合には女流作家とプロレタリア作家が多いと云うけれど、いったいに一癖《ひとくせ》ある人が沢山住んでいる。私が、落合に移り住んだ頃、夏になると川添いをボッカチオか何かを唄《うた》って通る男がいた。きまって夜の八時か九時頃になると合歓の木の梢《こずえ》をとおして円《まる》みのある男の声がひびいて来ていた。その頃、うちにいた女の書生さんは、「どんなひとでしょうね」と興味を持っていたが、ある夜使いから帰って来ると、
「紺餅《こんがすり》を着て蛇《じゃ》の目《め》の傘《かさ》を差して、ちょっといい男でしたわ」
と云った。ゆうゆうと唄いながら歩いていたと云うのだ。それが、下落合の高台の家に越して来てからも、夏の夜はその唄声が聞えていた。
「段々あの声うまくなって行くわね」
と、噂《うわさ》をしていると、もうその声は蓄音機にはいっていると女中がどこからか聞いて来た。
「あのひとは朝鮮の人ですって、いい声ですね」
前の家の近くの我が家[#「我が家」に傍点]と云う喫茶店では、その朝鮮の人のディスクをかけていた。音楽の思い出と云うものはちょっといいものだ。この頃はその唄をうたって落合川を歩いたひとも偉くなってしまったのか、夏になっても、唄がきこえて来なくなってしまった。
私の隣りがダンスホール、その隣りが、派出婦会をやっている家でダブリュ商会と云うのだけれど、ダブリュ商会なんてちょっと変った名前だ。その次が通りを一つ越して武藤大将邸なのだが、お葬式のある日にどこからか花輪を間違えて私の家へ持ち込んで来た。おおかた拓務省の自動車や武藤家の自動車がうちの前まで並んでいたからであろう。遊びに来ていた母親は、大変エンギがよいと云って喜んでいた。町内の人が国旗を出して欲しいと云うので、国旗を買いに行くやらして、ひっそりと同じ町内の御不幸を哀悼《あいとう》していたのに、武藤邸の近くで磯節か何かのラヂオが鳴っているのには愕《おどろ》いてしまった。
武藤邸の前にはアルプスと云う小カフェーがあって、小さい女給さんが、武藤邸の電信柱に凭《もた》れて、よく涼みながら煙草《たばこ》を吸っている。
武藤邸の白い長い石崖《いしがけ》を出はずれると、山の方へ上って行く誰にもそんなに知られていない石の段々がある。実に静かで長い段々なので、私は月のいい夜など、この石の段々へ犬を連れて涼みに行く。昼間見てもいい石の段々だ。
この家へ越して来た頃、駐在にいい巡査氏が居た。もうかなりな年配なひとだが、道で子供たちがキャッチボールかなんぞしていると、自分も青年のようにその中へ這入っていって子供たちに人気を呼んでいた。何か名句を一ツ書いて戴けませんかと、戸籍《こせき》しらべの折、頼まれたのだが、そのままになって、その巡査氏も何時《いつ》からかもう変ってしまった。――越して来た頃、石《いし》の巻《まき》の女でおきみと云う非常に美しい女を女中に使っていた。二十一歳で本を読むことがきらいであったが、眼のキリっとした娘で、髪の毛が実に黒かった。二ヶ月位して里へ帰って行ったが、すぐ地震に見舞われて、生きているのか死んだのか、今だに見当がつかない。この女の姉は芸者をしていた。家に居る間じゅう、きだての優しい娘で帰って行ってからも折にふれては「おきみはどうしたかしら」と私たちの口に出て来た。
いまは十五歳になる信州から来た女中がいる。これも百姓の娘できだてのいい娘《こ》だ。国への音信に、「隣りが武藤大将様のお邸《やしき》で、お葬式はお祭よりもにぎやかでありました」とハガキに書き送っていた。
原稿用紙も、やっぱり中井の駅の近くの文房具屋でこの頃は千枚ずつとどけて貰うのだが、十年|一日《いちじつ》の如く、小学生の使う上落合池添紙店製のをつかっている。越して来た頃、暗がり横町を走ってでなければ、原稿用紙が買いに行けなかったあの通りにも、家が四、五軒も建ち、何か法華経《ほけきょう》のような家も出来た。淋しかった暗がり横町のなごりに、いまは合歓の木が一本残っているきりで、面白いことに、その暗がり横町に出来た二階屋の一ツに、私の母たちが引越して行った。
「夏は涼しいが、冬は北向きで陽《ひ》がささんので、引越しすると家主さんに云うと、一円位はお前すぐまけてくれるそうだよ」
どこから聞いてきたのか、母はこんなことを云って笑っていた。母のところへ行くたび、ここを眼をつぶって走って通り抜けた三、四年前を憶い出すのであった。その北向きの家には、二階をヴァイオリンを弾く御夫婦に貸して、もう、老夫婦の住家《すみか》らしい色に染めてしまって、台所から見える墓場なども案外にぎやかなものだと云っていた。おいはぎの出た暗がりの横町に家が建ちその一軒に自分の親たちが住もうなどとは思いもよらなかった。それに二階の御夫婦は世にも善良な人たちで、奥さんはすらりとした、スペイン型の美人であった。御亭主は活動の方へ出ている人なのだが、時々母の持って来る話では、「トオキイちゅうは何かの? 楽隊がいらんごとになってしもうて、お前二階で遊んでおんなさるが」と云うことであったが、市内になってしまったとは云っても、郊外らしい活動館まで、トオキイになってしまっては、楽士さんもなかなか骨なことであろう。
いまは、秋らしくなった。だが、日中はなかなか暑い。私は二階の板《いた》の間《ま》に寝台を持ち出して寝ている。寝ていると月が体に降りそそぐように明るんで、灯を消していると虫になったような気がして来る。――高台なので、川の向うの昔住んでいたうちや、尾崎さんのいた家、昔は広い草の原であった住宅地などが一眸《いちぼう》のうちに見える。前居た家には、うちに働いていてくれた花子と云う女が世帯を持って住むようになった。小さい屋根に、私たちがしていたように、時々|蒲団《ふとん》が干してある。私が所在なくしたように、小窓から呆《ぼ》んやりした花子の顔が、川一ツへだてた向うに見える。下落合の丘には、あの細々と背の高い榎はないが、アカシアとポプラと桜が私の家を囲んで、春は垣根の八重桜《やえざくら》が見事に咲き、右手の桜の垣根の向うは広々とした荒地になっている。ここの荒地には、山芋《やまいも》が出来るので、よく家中で大変なカッコウをして掘りに出た。
誰も彼もいなくなったので、庭をつくる事も厭になり、いまは雑草と月見草のカッキョにまかせている。時々|空家《あきや》ではないかと聞きに来る人がある。私は上落合三輪の家で、家へ来る青年がつくってくれたカマボコ板の表札をここでも玄関へ釘つけて、それで平気でいるのだ。大分古びていい色になったが、子の字が下に書けなくなってしまって小さく書いてあるのが気にかかって仕方がない。
また、夏になった。もう前ほど女流のひとたちも来なくなった。城夏子《じょうなつこ》さんや辻山さんがやって来る位で、男のひとたちの来客が多い。山田清三郎《やまだせいざぶろう》さんもこの辺では古い住みてだし、村山知義《むらやまともよし》さんも古い一人だ。また、私の家の上の方には川口軌外《かわぐちきがい》氏のアトリエもあって、一、二度訪ねて来られた。素朴なひとで、長い間外国にいた人とも思えないほど、しっとりと日本風に落ちついた人である。風評で有名な中村恒子さんもうちの近くの二階部屋を借りて絵を描いているし、有望な絵描きの一人に入れていい独立の今西忠通君も、私の白い玄関に百号の入選画をかけてくれて、相変らず飯屋《めしや》の払いに困っている。
家の前は道をはさんで線路になっている。その線路はどの辺まで伸びて行っているのか、こんなに長くいて沼袋までしか行った事がないので知らない。朝々窓から覗《のぞ》いていると、近郊ピクニックの小学生たちの白い帽子が、電車の窓いっぱいに覗いて走って行く。夕方になると疲れたようなピクニック帰りが、また、いっぱい電車に群れて都会の方へ帰って行った。
私の仲のいい友達が、中井の駅をまるで露西亜《ロシア》の小駅のようだと云ったが、雨の日や、お天気のいい夕方などは、低い線路添いの木柵に凭れて、上落合や下落合の神《かみ》さんたちや奥さんたちが、誰かを迎いに出ている。駅の前は広々としていて、白い自働電話があり、自働電話の前には、前大詩人の奥さんであったひとがワゴンと云う小さなカフェーを開いている。
自働電話に添って下へ降りると落合川だ。嵐の日などは、よくここが切れて、遠まわりしなければ帰れなかったのだが、この川を半分防岸工事をして
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