、いったいに一癖《ひとくせ》ある人が沢山住んでいる。私が、落合に移り住んだ頃、夏になると川添いをボッカチオか何かを唄《うた》って通る男がいた。きまって夜の八時か九時頃になると合歓の木の梢《こずえ》をとおして円《まる》みのある男の声がひびいて来ていた。その頃、うちにいた女の書生さんは、「どんなひとでしょうね」と興味を持っていたが、ある夜使いから帰って来ると、
「紺餅《こんがすり》を着て蛇《じゃ》の目《め》の傘《かさ》を差して、ちょっといい男でしたわ」
 と云った。ゆうゆうと唄いながら歩いていたと云うのだ。それが、下落合の高台の家に越して来てからも、夏の夜はその唄声が聞えていた。
「段々あの声うまくなって行くわね」
 と、噂《うわさ》をしていると、もうその声は蓄音機にはいっていると女中がどこからか聞いて来た。
「あのひとは朝鮮の人ですって、いい声ですね」
 前の家の近くの我が家[#「我が家」に傍点]と云う喫茶店では、その朝鮮の人のディスクをかけていた。音楽の思い出と云うものはちょっといいものだ。この頃はその唄をうたって落合川を歩いたひとも偉くなってしまったのか、夏になっても、唄がきこえて来
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