あるし、哲学堂も近かった。春の哲学堂の中は静かで素敵だ。認識への道の下にある、心を型どった池の中にはおたま杓子《じゃくし》がうようよいて、空缶《あきかん》にいっぱいすくって帰って来たものだ。

 支那に遊んだ翌年の秋、私は一冊の本を出して欧洲へ一ヶ年の旅程で旅立った。巴里《パリ》へいっても倫敦《ロンドン》へいっても、よく、ばつけの白い堰や、哲学堂のおばけの夢なんぞを見て困った。もう帰れないのではないかと思った欧洲から、去年の夏、また上落合の榎のある家に帰って来た。
 庭にはダリアや、錯甲や、カカリアなどの盛りで、榎はよく繁って深い影をつくっていた。その頃、尾崎さんもケンザイで鳥取から上京して来ていた。相変らず草原の見える二階部屋で、私が欧洲へ旅立って行く時のままな部屋の構図で、机は机、鏡台は鏡台と云う風に、ちっとも位置をかえないで畳《たたみ》があかくやけついていた。障子にぴっちりつけて机があった。その机の上には障子に風呂敷が鋲《びょう》で止めてあった。この動かない構図の中で、尾崎さんはコツコツ小説を書いていたのに、私はうつり気なのか支那へ行ってみたり、欧洲へ行ってみたり、そして部屋の模様をかえてみたりした。十畳《じゅうじょう》位の部屋に小さい机が一ツに硯箱《すずりばこ》のいいのでもあったらと云うのが理想なのだが、三輪の家は物置きのようにせまくて、ちょっと油断しているとすぐ散らかって困った。――私は欧洲から帰って来ると、すぐまた戸隠山へ出掛けた。山で一ヶ月を暮らして帰って来ると、尾崎さんは躯《からだ》を悪くして困っていた。ミグレニンの小さい罎《びん》を二日であけてしまうので、その作用なのか、夜になるとトンボが沢山飛んで行っているようだと云ったり、雁が家の中へ這入って来るようだと、夜更けまで淋しがって私を離さなかった。
 眼の下の草原には随分草がほうけてよく虫が鳴いた。「随分虫が鳴くわねえ」と云うと、「貴女も少し頭が変よ、あれはラヂオよ」と云ったりした。私も空を見ていると本当にトンボが飛んで来そうに思えた。風が吹くと本当に雁が部屋の中に這入って来そうに思えた。ヴェランダに愉しみに植えていた幾本かの朝顔の蔓《つる》もきり取ってしまってあった。そんな状態で躰《からだ》がつかれていたのか、尾崎さんはもう秋になろうとしている頃、国から出て来られたお父さんと鳥取へ帰って行かれた。尾崎さんが帰って行くと、「この草原に家が建ったら厭《いや》だなア」と云っていたのを裏切るように、新《あた》らしい三拾円見当の家が次々と建っていって、紫色の花をつけた桐の木も、季節の匂いを運んだ栗の木も、点々としていた桃の木もみんな伐《き》られてしまった。
 尾崎さんが鳥取へ帰って行ってから間もなく、私は吉屋さんの家に近い下落合に越した。落合はやっぱり離れがたいのか、前の家からは川一ツへだてた近さであった。誰かが植民地の領事館みたいだと云ったが、外から見ると、丘の上にあって随分背が高く見えた。庭が広くて庭の真中には水蜜桃《すいみつとう》のなる桃の木の大きいのが一本あった。井伏鱒二《いぶせますじ》さんは、何もほめないでこの桃の木だけをほめて行った。三輪にいる頃も、草花を植える趣味をひどく軽蔑して、何でも木を植えなさいと云っていたが、案のじょう、下落合の家に来ても、桃は春のうちに枝をおろしてやれとか、なかなかコウシャクがむずかしかった。
 ここへ移って来てからも色々な人たちが来た。女流作家の人たちも沢山来てくれた。皆若い人たちで暗く長い私の文運つたなかりし頃の人たちと違って、もう一年か二年で頭角《とうかく》を現わした華《はなや》かな人たちばかりであった。
 鳥取へ帰った尾崎さんからは勉強しながら静養していると云う音信があった。実にまれな才能を持っているひとが、鳥取の海辺に引っこんで行ったのを私は淋しく考えるのである。
 時々、かつて尾崎さんが二階借りしていた家の前を通るのだが、朽《く》ちかけた、物干しのある部屋で、尾崎さんは私よりも古く落合に住んでいて、桐や栗や桃などの風景に愛撫されながら、『第七官界彷徨』と云う実に素晴らしい小説を書いた。文壇と云うものに孤独であり、遅筆で病身なので、この『第七官界彷徨』が素晴らしいものでありながら、地味に終ってしまった、年配もかなりな方なので一方の損かも知れないが、この『第七官界彷徨』と云う作品には、どのような女流作家も及びもつかない巧者なものがあった。私は落合川に架したみなかばし[#「みなかばし」に傍点]と云うのを渡って、私や尾崎さんの住んでいた小区《まち》へ来ると、この地味な作家を憶《おも》い出すのだ。いい作品と云うものは一度読めば恋よりも憶い出が苦しい。

 私の家の出口には、中井ダンスホールと云うのがある。まだ一度も行った事はな
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