いが、なかなかさかっているのだろう。門を這入ると足のすれあっている音や、レコードが鳴っている。――私の家はかなり広いので、(セットの貧弱なのが心残りなのだが)、あんまり漠然としているので、そうそう旅をしなくなった。あっちの片隅《かたすみ》、こっちの片隅と自分の机をうつして行くのだが、こんな大きな家で案外安住の書斎がない。時に台所の台の上で書いたり、茶の間で書いたりして旅へ出たような気でいたりした。
 ここの家からは中井の駅が三分位になり、吉屋さんの家が近くなった。近くなったくせに訪問しあうことはまれで、なかなかヨインのある御近所だと思っている。東中野へ出て行く道には、大名笹《だいみょうささ》で囲まれた板垣直子《いたがきなおこ》さんの奥ゆかしい構えがある。ひところ、大田洋子《おおたようこ》さんも落合の材木屋の二階にいたのだが、牛込《うしごめ》の方へ越してしまった。中井の駅の前には辻山春子《つじやまはるこ》さんの旦那さんがお医者を開業されたし、神近市子《かみちかいちこ》女史も落合には古くからケンザイだ。これで、なかなか女流作家が多い。
 落合には女流作家とプロレタリア作家が多いと云うけれど、いったいに一癖《ひとくせ》ある人が沢山住んでいる。私が、落合に移り住んだ頃、夏になると川添いをボッカチオか何かを唄《うた》って通る男がいた。きまって夜の八時か九時頃になると合歓の木の梢《こずえ》をとおして円《まる》みのある男の声がひびいて来ていた。その頃、うちにいた女の書生さんは、「どんなひとでしょうね」と興味を持っていたが、ある夜使いから帰って来ると、
「紺餅《こんがすり》を着て蛇《じゃ》の目《め》の傘《かさ》を差して、ちょっといい男でしたわ」
 と云った。ゆうゆうと唄いながら歩いていたと云うのだ。それが、下落合の高台の家に越して来てからも、夏の夜はその唄声が聞えていた。
「段々あの声うまくなって行くわね」
 と、噂《うわさ》をしていると、もうその声は蓄音機にはいっていると女中がどこからか聞いて来た。
「あのひとは朝鮮の人ですって、いい声ですね」
 前の家の近くの我が家[#「我が家」に傍点]と云う喫茶店では、その朝鮮の人のディスクをかけていた。音楽の思い出と云うものはちょっといいものだ。この頃はその唄をうたって落合川を歩いたひとも偉くなってしまったのか、夏になっても、唄がきこえて来なくなってしまった。

 私の隣りがダンスホール、その隣りが、派出婦会をやっている家でダブリュ商会と云うのだけれど、ダブリュ商会なんてちょっと変った名前だ。その次が通りを一つ越して武藤大将邸なのだが、お葬式のある日にどこからか花輪を間違えて私の家へ持ち込んで来た。おおかた拓務省の自動車や武藤家の自動車がうちの前まで並んでいたからであろう。遊びに来ていた母親は、大変エンギがよいと云って喜んでいた。町内の人が国旗を出して欲しいと云うので、国旗を買いに行くやらして、ひっそりと同じ町内の御不幸を哀悼《あいとう》していたのに、武藤邸の近くで磯節か何かのラヂオが鳴っているのには愕《おどろ》いてしまった。
 武藤邸の前にはアルプスと云う小カフェーがあって、小さい女給さんが、武藤邸の電信柱に凭《もた》れて、よく涼みながら煙草《たばこ》を吸っている。
 武藤邸の白い長い石崖《いしがけ》を出はずれると、山の方へ上って行く誰にもそんなに知られていない石の段々がある。実に静かで長い段々なので、私は月のいい夜など、この石の段々へ犬を連れて涼みに行く。昼間見てもいい石の段々だ。
 この家へ越して来た頃、駐在にいい巡査氏が居た。もうかなりな年配なひとだが、道で子供たちがキャッチボールかなんぞしていると、自分も青年のようにその中へ這入っていって子供たちに人気を呼んでいた。何か名句を一ツ書いて戴けませんかと、戸籍《こせき》しらべの折、頼まれたのだが、そのままになって、その巡査氏も何時《いつ》からかもう変ってしまった。――越して来た頃、石《いし》の巻《まき》の女でおきみと云う非常に美しい女を女中に使っていた。二十一歳で本を読むことがきらいであったが、眼のキリっとした娘で、髪の毛が実に黒かった。二ヶ月位して里へ帰って行ったが、すぐ地震に見舞われて、生きているのか死んだのか、今だに見当がつかない。この女の姉は芸者をしていた。家に居る間じゅう、きだての優しい娘で帰って行ってからも折にふれては「おきみはどうしたかしら」と私たちの口に出て来た。
 いまは十五歳になる信州から来た女中がいる。これも百姓の娘できだてのいい娘《こ》だ。国への音信に、「隣りが武藤大将様のお邸《やしき》で、お葬式はお祭よりもにぎやかでありました」とハガキに書き送っていた。
 原稿用紙も、やっぱり中井の駅の近くの文房具屋でこの頃は千枚ずつと
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