どけて貰うのだが、十年|一日《いちじつ》の如く、小学生の使う上落合池添紙店製のをつかっている。越して来た頃、暗がり横町を走ってでなければ、原稿用紙が買いに行けなかったあの通りにも、家が四、五軒も建ち、何か法華経《ほけきょう》のような家も出来た。淋しかった暗がり横町のなごりに、いまは合歓の木が一本残っているきりで、面白いことに、その暗がり横町に出来た二階屋の一ツに、私の母たちが引越して行った。
「夏は涼しいが、冬は北向きで陽《ひ》がささんので、引越しすると家主さんに云うと、一円位はお前すぐまけてくれるそうだよ」
どこから聞いてきたのか、母はこんなことを云って笑っていた。母のところへ行くたび、ここを眼をつぶって走って通り抜けた三、四年前を憶い出すのであった。その北向きの家には、二階をヴァイオリンを弾く御夫婦に貸して、もう、老夫婦の住家《すみか》らしい色に染めてしまって、台所から見える墓場なども案外にぎやかなものだと云っていた。おいはぎの出た暗がりの横町に家が建ちその一軒に自分の親たちが住もうなどとは思いもよらなかった。それに二階の御夫婦は世にも善良な人たちで、奥さんはすらりとした、スペイン型の美人であった。御亭主は活動の方へ出ている人なのだが、時々母の持って来る話では、「トオキイちゅうは何かの? 楽隊がいらんごとになってしもうて、お前二階で遊んでおんなさるが」と云うことであったが、市内になってしまったとは云っても、郊外らしい活動館まで、トオキイになってしまっては、楽士さんもなかなか骨なことであろう。
いまは、秋らしくなった。だが、日中はなかなか暑い。私は二階の板《いた》の間《ま》に寝台を持ち出して寝ている。寝ていると月が体に降りそそぐように明るんで、灯を消していると虫になったような気がして来る。――高台なので、川の向うの昔住んでいたうちや、尾崎さんのいた家、昔は広い草の原であった住宅地などが一眸《いちぼう》のうちに見える。前居た家には、うちに働いていてくれた花子と云う女が世帯を持って住むようになった。小さい屋根に、私たちがしていたように、時々|蒲団《ふとん》が干してある。私が所在なくしたように、小窓から呆《ぼ》んやりした花子の顔が、川一ツへだてた向うに見える。下落合の丘には、あの細々と背の高い榎はないが、アカシアとポプラと桜が私の家を囲んで、春は垣根の八重桜《やえざくら》が見事に咲き、右手の桜の垣根の向うは広々とした荒地になっている。ここの荒地には、山芋《やまいも》が出来るので、よく家中で大変なカッコウをして掘りに出た。
誰も彼もいなくなったので、庭をつくる事も厭になり、いまは雑草と月見草のカッキョにまかせている。時々|空家《あきや》ではないかと聞きに来る人がある。私は上落合三輪の家で、家へ来る青年がつくってくれたカマボコ板の表札をここでも玄関へ釘つけて、それで平気でいるのだ。大分古びていい色になったが、子の字が下に書けなくなってしまって小さく書いてあるのが気にかかって仕方がない。
また、夏になった。もう前ほど女流のひとたちも来なくなった。城夏子《じょうなつこ》さんや辻山さんがやって来る位で、男のひとたちの来客が多い。山田清三郎《やまだせいざぶろう》さんもこの辺では古い住みてだし、村山知義《むらやまともよし》さんも古い一人だ。また、私の家の上の方には川口軌外《かわぐちきがい》氏のアトリエもあって、一、二度訪ねて来られた。素朴なひとで、長い間外国にいた人とも思えないほど、しっとりと日本風に落ちついた人である。風評で有名な中村恒子さんもうちの近くの二階部屋を借りて絵を描いているし、有望な絵描きの一人に入れていい独立の今西忠通君も、私の白い玄関に百号の入選画をかけてくれて、相変らず飯屋《めしや》の払いに困っている。
家の前は道をはさんで線路になっている。その線路はどの辺まで伸びて行っているのか、こんなに長くいて沼袋までしか行った事がないので知らない。朝々窓から覗《のぞ》いていると、近郊ピクニックの小学生たちの白い帽子が、電車の窓いっぱいに覗いて走って行く。夕方になると疲れたようなピクニック帰りが、また、いっぱい電車に群れて都会の方へ帰って行った。
私の仲のいい友達が、中井の駅をまるで露西亜《ロシア》の小駅のようだと云ったが、雨の日や、お天気のいい夕方などは、低い線路添いの木柵に凭れて、上落合や下落合の神《かみ》さんたちや奥さんたちが、誰かを迎いに出ている。駅の前は広々としていて、白い自働電話があり、自働電話の前には、前大詩人の奥さんであったひとがワゴンと云う小さなカフェーを開いている。
自働電話に添って下へ降りると落合川だ。嵐の日などは、よくここが切れて、遠まわりしなければ帰れなかったのだが、この川を半分防岸工事をして
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