みな弾《はじ》けていて、雁来紅ももう終りであった。その年の十二月には、東京朝日の夕刊小説を書かして貰った。雪の降りそうな夜更《よふ》けの事で、私は拾銭玉を持って風呂へでも行って来ようとしていた時であった。朝日の時岡さんが、「芙美子さん今日はいい知らせを持って来ました」と云って上って来られた。私は大馬力でその夕刊小説を書いた。暮れの二十八日に貰った千円以上の金に、私は馬鹿のようになってしまって、イの一番に銀座の山野《やまの》でハンガリアン・ラプソディのディスクを買った。天金《てんきん》で一番いい天麩羅《てんぷら》を下さいと云って女中さんに笑われた。そして一番いい自動車に乗って帰ろうと思って、あんまりよくないのに乗って家まで帰ったのを覚えている。
 家には、夫や、二、三人の絵描きさんたちが居た。みんな貧乏で、お正月は支那そば会をしようと云っていた連中も、私の持って帰った札束を見ると、みんな「憂鬱《ゆううつ》じゃのウ」と云ってひっくりかえってしまった。
 お正月はこの貧しく有望な絵描きたちを招《よ》んで、実に壮大な宴を張った。国には二百円も送ってやり「あッ!」と云う両親の声が東京まできこえて来たような気がした。両親は私の書くものを一番ケイベツしていたので、その申しひらきの見得《みえ》もありなかなかに人生ユカイなものの一つであったのだ。
 家の前には井戸があった。朝夕この井戸はにぎわって、子供たちが沢山群れていた。私は玄関の前に茣蓙《ござ》を敷いて子供たちと飯事《ままごと》をして遊んだ。一生のうち此様な幸福な事はないと思った。夕刊小説は出来がよくなかったが、色々な人が金を貰いに来た。私は子供たちと茣蓙の上で遊びながら、お金を貰いに、本所《ほんじょ》から歩いて来たとか深川から歩いて来たとか云う人たちに、「林さんはさっき出て行きましたよ」と嘘を云った。中には、貴女《あなた》は女中さんですかお妹さんですかと訊くひともあったが、写真に出ている顔は満足に私に似ているのがないので、誰も不思議がりもせず帰って行った。
 初めの頃は正直に一円二円と上げていたのだが、日に三、四人も来られると、まるで話しあわされたようで、もう不快で仕方がなかった。餅や菓子をくれと云う人の方がよっぽど好意がもてた。
 落合川をへだてた丘の下落合には、片岡鉄兵《かたおかてっぺい》さんや、吉屋信子《よしやのぶこ》さんが住んでいた。鉄兵さんにはよく中井の駅の通りで会った。吉屋さんは、玄関の前に井戸のある私の陋屋《ろうおく》に時々おとずれて面白い話をしてゆかれた。実際陋屋と呼ぶにふさわしく、玄関の前に井戸があるので、家の前は水の乾くひまもなくて、訪ねて来る人たちは足元を要心しなければならない。新聞社で写真を撮りに来ると、外に写す場所がないので、よく井戸を背景にして写して貰った。
 前は二軒長屋の平屋《ひらや》で、砲兵工廠《ほうへいこうしょう》に勤める人と下駄の歯入れをする人、隣家は宝石類の錺屋《かざりや》さんで、三軒とも子供が三、四人ずついた。その子供たちが、皆元気で、家に飼っていた犬の毛をむしりに来て困った。
 この落合川に添って上流へ行くと、「ばつけ」と云う大きな堰があった。この辺に住んでいる絵描きでこの堰の滝のある風景を知らないものはもぐり[#「もぐり」に傍点]だろうと思われるほど、春や夏や秋には、この堰を中心にして、画架を置いている絵描きたちが沢山いた。中井の町から沼袋への境いなので、人家が途切れて広漠たる原野が続いていた。凧《たこ》をあげている人や、模型飛行機を飛ばしている人たちがいた。うまごやしの花がいっぱいだし、ピクニックをするに恰好の場所である。この草原のつきたところに大きな豚小屋があって、その豚小屋の近くに、甲斐仁代《かいひとよ》さんと云う二科の絵描きさんが住んでいた。御主人を中出三也《なかでさんや》さんと云って、この人は帝展派だ。お二人とも酒が好きで、画壇には二人とも古い人たちである。私はこの甲斐さんの半晴半曇《はんせいはんどん》な絵が好きで、ばつけの堰を越しては豚小屋の奥の可愛いアトリエへ遊びに行った。
 夕方など、このばつけの板橋の上から、目白商業の山を見ると、まるで六甲《ろっこう》の山を遠くから見るように、色々に色が変って暮れて行ってしまう。目白商業と云えばこの学校の運動場を借りてはよく絵を書く人たちが野球をやった。のんびり[#「のんびり」に傍点]講などと云うハッピを着た連中などの中に中出さんなんかも混っていて、オウエンの方が汗が出る始末であった。
 来る人たちが、落合は遠いから大久保あたりか、いっそ本郷あたりに越して来てはどうかと云われるのだけれど、二ヶ月や三ヶ月は平気で貸してくれる店屋も出来ているので、なかなか越す気にはなれない。それに散歩の道が沢山
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