夜福
林芙美子

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【テキスト中に現れる記号について】

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        一

 青笹の描いてある九谷の湯呑に、熱い番茶を淹れながら、久江はふつと湯呑茶碗のなかをのぞいた。
 茶柱が立つてゐる。絲筋のやうなゆるい湯氣が立ちあがつてゐる。
「おばアちやん、清治のお茶、また茶柱が立つてゐますよ」
 雪見障子から薄い朝の陽が射し込んでゐる。
 久江はその湯呑茶碗をそつと持つて、お佛壇の棚へそなへた。佛壇の中には、十年も前に亡くなつた父や伯母の位牌が飾つてある。その父と伯母の位牌の間に、去年戰死した一人息子の清治の位牌がまつゝてあつた。父や伯母の湯呑は小さい白い燒物だつたけれど、清治のだけは、生前、清治が好きで毎日つかつてゐた九谷の湯呑茶碗をつかつた。
 久江は佛壇の前に暫く坐つて眼をつぶつてゐた。
 赤い毛糸で編んだ袖なしを着てゐる。[#「着てゐる。」はママ]今年八十二歳の久江の母は、薄陽の射してゐる疊へ油紙を敷いて、おもとの鉢植を並べて手入れをしてゐた。頭はすつかり禿げてしまつてゐるけれども、色の白いおばあさんだつたので、老人特有の汚さが少しもない。
 久江は手を合はせてぢつと拜みながら、(お父さんがねえ、あんたのお位牌を拜みに來たいつておつしやるのよ)と、口のうちでそつとつぶやいてゐる。
 清治は戰死したけれど、何時も私達のそばにゐてくれるだらうと、おばあさんはいふのである。
 庭のこぶしには、薄みどりの芽が萠えてゐたし、南天もきらきら陽に光つてゐる。十坪ばかりの狹い庭だつたけれども、おばあさんが庭いぢりが好きで、何處もこゝも丹誠して京都あたりの庭のやうに、清潔できれいだつた。清治も、このおばあさんの薫陶をうけたせゐか、非常に庭をつくることが好きで、出征する前は日曜日なんかは植木屋みたいに器用な鋏のつかひかたで終日枝落しや植かへを愉しんでゐたものである。
 大學時代にはテニスも少しばかりやつてゐた。
「おばあさん、――この間から考へてゐたンですけど、この家を賣らないかといふひとがあるンですけどねえ‥‥」
 おばあさんは、巾着のやうにすぼまつた唇をもぐもぐさしてゐる。鼻が小さくて何時も笑つてゐるやうなおばあさんの表情は、久江にとつては豐年の稻穗を見てゐるやうに平和な氣持だつた。
「買つてくれるお人があるのかねえ」
 眼も耳も達者で、若い時は淨瑠璃をやつてゐたせゐか、聲が澄んできれいであつた。
「えゝ、佐竹さんで、この家を世話するつておつしやるンだけど‥‥宿屋商賣も樂ぢやないし、このごろは柄が惡くなつて、使つてゐる人間だつて、爪の先ほどの親切氣もなくなつたンですもの、――つくづくこの商賣が厭になりましたわ」
「そりやアねえ、お前さんだつて樂ぢやないとおもひますけど、わたしは、もうこんな年だし、――本當は見も知らない家へ引越して死にたくはないと思つてるンだけどね‥‥」
「えゝよく判ります」
「でもねえ、何ですか、世間でよくいつてゐる、新體制ですか、それに順應してゆくといふたてまへなら、私もどこへでも行きますよ。――清治の位牌を持つてどこでも行きます」
 一ヶ月ばかり前にやとひいれた里子といふ若い女中が、足袋もはかない大きい足で廊下を走つて來た。
「お神さん、雪の間で御勘定して下さいつて‥‥」
 久江は障子の外から立つたなりでものをいつている里子の無作法に眉をしかめながら、
「あら、まだ二三日いらつしやるつて御樣子だつたのに、もう、お立ちになるのかい?」
「えゝ、急に歸るンですつて‥‥」
「歸るつて言葉はないでせう。お歸りになりますつていふのよ――、どうも、この節のひとは、どうして、こんなに野郎言葉になつちまつたのかねえ」
 久江は帳場へ行つて硯の墨をすりはじめた。

        二

 風のない暖かい陽氣が二三日續いた。
 久江は地下鐵で淺草まで行き、松屋のそばから馬道の方へ這入つて行つた。二天門から觀音樣の境内へはいつて、行くと、平内樣を拜んでそれから暫く群れてゐる鳩を眺めてゐた。
 鳩は無心に久江の足もとに餌をついばみにやつて來る。豆賣りの店を見ると、大豆はほんの數へるほど、錻力の小皿の中には、雜穀が澤山混つてゐる。久江は觀音樣へ來る度に、豆賣りから豆を買つて鳩へ與へるのがならはしであつた。
 肩の上に白つぽい鳩が飛び降りて來た。
 清治を連れてよくこの鳩を見に來たものだつたがと、今日、別れて久しい良人に會ふことが、久江にはあんまりいゝ氣持ではなかつたのだ。
 四十七にもなつて、女が世間を迷ひ歩くといふことは、あまりみつともいゝことではないと思ひながらも、清治のゐなくなつたいまでは妙に氣持が弱くなつてしまつてゐて、まるで十七八の
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