小娘のやうに他愛のない女心になつてゐるのが久江には口惜しかつた。
 十二時半の約束までには、まだ四十分ばかりも時間があつた。
 久江は肩から鳩をおろして、觀音樣のお堂へ上つて行つた。朝のせゐか人出も少い。淺草も段々昔と變つてきたものだと、汚れた裂繩のさがつてゐるがらがらを振つて、おさいせんを投げた。
 二十五六年も昔のことだけれども、大吉郎と戀をして、二人でよく淺草まゐりをしたものだつたけれど、その頃は流行の白たけながをかけた島田に結つて、ロシヤ毛糸で編んだ四角い肩掛けをしてゐたものだつた。
 大吉郎と一緒になつてすぐ清治が生れた。
 清治が十六の時に久江の父親が亡くなり、大吉郎は女をつくつて他に別居してしまつたのだ。
 あれから十年の歳月が流れてゐる。たつた一人息子の清治はお國にさしあげてしまつて、いまは久江の家族といへば、八十二歳の母と自分きりの世帶になつてしまつてゐる。大吉郎と別れた當時、五六千圓の貯金をたよりに、芝の露月町に京都風な小さい宿屋を開いた。客を泊める部屋は四部屋位しかなかつたけれども、有難いことには次から次へと、筋のいゝ紹介の客が絶えなかつた。
 この家で清治は大學も出たし、會社勤めもしたのである。

 久江は何時ものやうにおみくじを二つ引いて帶の間へしまふと、また二天門の方へ復つて行つた。歩きながらも、いまさら御用でもあるまいと苦笑するのであつた。
 二三日前から、一度逢ひたいといふ電話が大吉郎からあつた。相變らずのしやがれ聲で、出先きからでも掛けてゐるやうな氣樂なものゝいひかたである。――別れてからも二年に一度位は何かの偶然で逢つてはゐたけれども、かうして自分から電話をくれるのは始めてゞあつた。
 亡くなつた清治がお化けになつて、大吉郎をさそひに行つたのかも知れない。お母さんも淋しいのですから、何とかより[#「より」に傍点]を戻して下さい、そんな風に久江は電話の聲から空想したものである。
 いやなお化けだね、清治さんのおせつかいめ! 久江はそんなことを考へる自分を哀れに思ひ、いつそ、その電話通り、逢ひに行つてみようかとも考へるのである。
「逢ひたいつて、別に、いまさら、あなたにお逢ひしたところで何も用事はないはずですし、清治が戰死したことだつて、あなたはかまつたことぢやないでせう‥‥あんな厭な別れかたをしてゐるンですし、清治だつて、あなたをしつかりうらんでゐるはずです。出征の時だつて、あなたのお神さんが、おせんべつを持つて來られたンぢや、何ともいひやうがありませんしね。――まア、氣の小さいいひかたですけど、いまさら佛樣もないでせう?」
 そのまゝ向ふの返事も待たずにがちやりと大吉郎からの電話を久江は切つてしまつたのだつた。
 その電話から二三日して、また昨夜の電話である。
「何も彼もあやまるよ、男が頭をさげてたのむのだから、いつぺん來てくれてもいゝだらう、淺草の金田で待つてゐる。――ぜひ話があるンだよ、十二時半、これなら、君の商賣にもさしつかへないだらう‥‥ぢや、先きに行つて待つてるから‥‥」
 久江は歩きながら、昨夜の電話に吊られて臆面もなく出て來た自分が後悔されたけれども、また何事も別れてゐた良人にいまさら逢ふのも、死んだ清治の頼みなのだらうと、自分でいろんな理窟をつけてみるのであつた。
 金田へ着いたのが丁度十二時半、十二時のぽーは馬道のガラス屋の前で聞いた。一走り花川戸の新天の鼻緒屋へ行つて、五足分の黒鼻緒を買つて金田までゆつくり三十分。大吉郎は、奧まつた部屋の唐敷疊へ胡坐をくんでゐた。漆喰の圓窓から噴水だの、池だの、赤松だのが見える。
 赤い襟の小女が、「お客樣です」と久江を案内してゆくと、大吉郎は肥えた躯をむつくりとゆすぶつた。
 久江は小柄な女で、茶と黒の大名縞のお召に、くすんだ茄子紺の縫紋の羽織を着てゐた。
「忙しいンだらう‥‥」
 昔からハンカチをつかつたことのない大吉郎は、きちんと折つた新しい手拭で額を拭きながら久江を見上げた。
「別に忙しくもないンですけど、このごろは人手もないもンで弱つてゐます‥‥」
 坐るなり久江は眼を外らした。
 大吉郎はもうだいぶ禿げあがつた酒燒けのした額で、子供のやうに眼をしばたゝいてゐた。結城の鐵無地の揃ひを着て、きどつたなり[#「なり」に傍点]をしてゐる。かうして差し向ひに坐つてみると、二人とも妙に白けてしまつて、何から話し出していゝのか、そのくせ、二人は氣忙はしさうに兩手を焦々ともてあましてゐる。

        三

「お酒は?」
「いや、晝酒はくれないンださうだ。おしきせで食べるンださうだよ」
 鷄皿や茶碗を運んで來た小女が笑つてゐる。
 小さい茶袱臺の横に白木のふち[#「ふち」に傍点]のついた七輪が來た。鍋に割下をついで鷄を入れるのは珍らしい
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