がはいり、土を掘りかへすやうなすさまじい雨であつた。泥まみれなハイヤに荷物も何もいつしよくたに乘りこんで、伊藤氏に紹介された近水ホテルに行く。田上義也と云ふひとの建築になるとかでライト式だと云ふことである。だが山の温泉宿としては少々薄々とした建物でアパートのやうな氣がしないでもなかつた。私は洋室がきらひなので、日本の部屋へ案内をして貰ふ。いゝ部屋のつくりであつた。温泉へ着いて日本の部屋位有難いものはない。女中達は物靜かで優しかつた。
何よりも沛然と降る雨を眺め、雷のすさまじい音をきくのは、ぴしぴししたきびしいものを感じて爽かである。眼の下を小さい釧路川の上流がゆるく走つてゐる。雨の霽れ間を縫つて蜩《ひぐらし》がよく鳴いた。
私はだが不幸な旅人であるらしい。此樣な風景を見ても、私の心は先きへ先きへと走つて、同行の女性にも氣の毒なほど默りこくつてゐる。
二人で温泉へはいる。
湯舟は川へ突き出てゐて、赤いレンガを疊んだ圓い浴槽であつた。河の流れが黄昏れた大きい硝子窓に寫つてゐる。これで四圍に鬱蒼とした深い樹林があつたら素的だらうと思つた。ホテルの戸外は土地が若いせいか荒地にある感じで、此河だけがよかつた。ホテルの經營者遠藤清一氏は、軈て庭にも野菜や花を植ゑると云つてゐられたけれど、むしろあの庭には白樺や楡《にれ》の木の亭々としてゐる方がふさはしいと思へる。
湯から上ると、窓をあけて明日登ると云ふ摩周の山々を見た。ピラオ山や雄阿寒岳《をあかんだけ》、雌阿寒岳《めあかんだけ》が、薄墨のやうにそれらの峰が遠く見える。その山の上に星も月もさえてゐた。月はまだ細かつた。東京を出て何日になるだらうと、不圖、そんなことを考へる。手紙の外は何も書かず、讀まず、その手紙もまるで日記ばかりで、その日その日の心を書きおくるだけで、不思議な位に空虚だつた。
床につくと、婦人記者のひとは色々自分の身上話を始めたが、私の想ひは、遠く外の事ばかりに心が走つてゐた。雨は何時までも止まなかつた。
翌朝眼が覺めた時は、河も向う岸も滴るやうな新緑で、山の木立の影さへはつきり見えるかのやうに晴れてゐた。障子をあけて此美しい空に茫然とした。
すぐ山へ行く支度にかゝると、ホテルの遠藤氏が御案内しませうと云つて來られた。かへつて恐縮な氣持ちであつたけれど、快よく、三人で宿を出る。便利なことに摩周の湖までハイヤが通ると云ふことで、私達は自動車《くるま》で山へむかつた。
此地帶は、山うるしや、どろの木、白樺、柏、澤梨《さんなし》、ゑんじゆ[#「ゑんじゆ」に白丸傍点]のやうな樹木が多くて、緑の色は内地より淺い。
摩周山は海拔三百五十米位で、湖の深さは二百米ばかりあるとか聞いた。摩周山の中腹から見える湖の姿はぽつんと鏡を置いたやうであつた。此鏡のやうな湖心にはカムイシユと云ふ黒子のやうな島があり、まるで浮いてゐるやうであつた。去來する雲の姿が露西亞《ロシア》の映畫のやうに明るく見えて、波一ツない靜けさである。湖の向うには摩周の劔のやうな頂上が雲の中へ隱れてゐるやうに見えた。湖岸は降りてゆくにむづかしい絶壁で、遠く地底に眺める湖だけに暗く秀いでゝゐる。紅鱒やザリガニを放つてあると云ふことだが、あんまり波がないので、死んだ湖のやうに見える。足元は熊笹と白樺の若木で、風が下から吹きあげて來た。
此邊いつたいを阿寒地帶と云つて、私の立つてゐる熊笹の丘から雌雄の阿寒岳の峰や、斜里《しやり》岳|漂津《しべつ》の重なつた山々の姿がパノラマのやうに眼に這入つて來る。
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雲のよ
雲の海かよ渦卷く霧に
煙る摩周湖七彩八變化
かはる姿のとなこ[#「となこ」に白丸傍点]
おもしろや。
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これは摩周湖小唄とでも云ふのであらうが、この唄では摩周の湖も氣の毒すぎる。私は北海道へ來て、興味を持つてゐる湖はこの摩周と、帶廣の奧の然別《しかりべつ》湖であつた。摩周湖は自分の空想した湖よりも神々しかつた。渚に人を寄せつけない孤立した湖だけに、地味で雄大であつた。晴れ間に姿を現はしてゐる間はまことに束の間で、何時も霧か雲で姿を隱してゐると云ふことである。
摩周の湖へ出るには、釧路から舌辛《したから》驛へ出て、阿寒湖めぐりをして、摩周湖へ着くのが風景がいゝらしい。――私達は、それより山を降りて、北見の國境近い屈斜路湖《くつしやろこ》へ向かつた。
山を降りると、もう天候が氣むづかしくなつて、雨氣をふくんだ風が沿道の森林の梢を氣味惡く圓く吹きあげて行く。
屈斜路湖は周圍四十七粁で、まるで海のやうにも見える。まづ南方の方から這入つて行つた。此邊の御料地にはポントウ、オサツペ、エントコマツプ、サツテキナイなぞの部落があつて、途中の和琴小學校では運動會があつた
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