。運動場の木柵には馬もつないであつた。校舍をめぐらした紅白の鯨幕が風をはらんで獅子舞ひのやうに見えた。白い運動着の先生はメガホンを眼にあてたりしてゐた。校舍はぽつんと荒地の中にあつて、その小さい校舍の横には運動會相手の菓子屋が小さい店を張つてゐた。
 私達は、此小部落を通つて和琴《わこと》半島へ這入つて行つた。渚には茹で玉子やせんべいを商ふ茶店が一軒あつた。茶店の前には野天の自然風呂があつて、岩と岩との割目に出來た浴槽にひたつて、部落のお神さんや子供達が茹でられたやうに紅い皮膚をして聲高く世間話をしてゐた。自然で何の工作もしてないだけに、私は夜の此天然温泉の風景も思ひ描く。月の明るい夜なぞどんなにいゝだらうかと思つた。岩の上には黄色の湯花がたまり、まるで菖蒲池に水浴してゐるやうにも見える。私は子供のやうに手をつつこんで見た。私のそばで背中を洗つてゐたお神さんは「今日は天氣のせゐか、えらい熱い湯で、ぢつとはいつてをられん」と云つてゐた。湯の湧口に掘立小屋があつて、そこには型ばかりの脱衣場もあつた。
 此湖は、摩周湖のやうに孤獨氣でないだけに、派手で、渚の平地には、所々小さい温泉旅館があつた。南はチセヌプリ、イワタヌシの山岳に圍まれ、その後方に、コトニプリ、オサツペヌプリ、サマツケヌプリの山々が流れてゐる。
 湖が廣いので一望に眺めることが出來ない。渚はまるで海のやうで砂地はどこを掘つても湯があふれた。水ぎはの波の色は糸を引いたやうな黄色い湯花の波で、不思議な景色だ。
 和琴半島と云つても小さな半島で、大町桂月がつけたのだと聞いた。
 歸途は屈斜路湖の沿岸をめぐつて、川湯の部落へ向つた。途中、私達は硫黄山へも登つた。這ひ松や、白い花を萬朶と咲かせたいそつゝじ[#「いそつゝじ」に白丸傍点]のお花畑へ出た。いそつゝじ[#「いそつゝじ」に白丸傍点]の花は頬をよせると、ふくいく[#「ふくいく」に白丸傍点]とした匂ひをはなつて、姿に似ず何時までも匂ひが浸みて來る。此お花畑は硫黄山麓十五六萬アールに亙つてゐる。
 硫黄山には樹木が一本もなかつた。それなのに、中腹の柵の中には保安林と書いてあつた。どつとんどつとんまるで動いてゐるモーターの上を歩いてゐるやうなすさまじい活火山で、登りながら、硫氣を噴出してゐる氣孔の上へ石を投げると、面白い程その石がミヂンに碎け散るのであつた。銀製の指輪が眞黒になつた。山肌は白と黄とエメラルドグリンの苔で、何だか菓子でつくつた山へ登るやうであつた。山裾には硫黄の工場があつた。明治十九年頃、安田一家がこゝに硫黄採取事業を經營して、標茶《しべちや》の驛まで運搬したものだと云ふことだ。
 川湯温泉は、弟子屈《でしかが》温泉より一つ向ふの驛で、網走へむかつた方である。部落中にふくいくとしたいそつゝじ[#「いそつゝじ」に白丸傍点]の花が咲いて、淺い枯れたやうな河床から湯が吹きこぼれてゐた。弟子屈への車中で、この川湯の驛長さんに遇つたのを思ひだしたが、あいにく雨が降り始めた。こゝには土産物を賣る店と自動車屋が二三軒ある。
 黄いろいジヤケツを着た若い運轉手は「これは大雨になりさうですぜ」と、急いでハンドルをきり川湯から弟子屈への暗い森の中の沿道を、四十哩の速度を出して走らせた。
 昨日よりもひどい雷で、雷光が走るとすぐ頭の上にすさまじい雷鳴がした。烏が幾十羽となく吃驚したやうに森の中へ逃げこんでゐる。雨に滴を拂らつて逃げまどふ烏の姿を私は何時までもふりかへつて見た。
「人の子にとつては、生れないこと、烈しい日の光を見ないことが、萬事にまさつてよいことである。しかしもし生れゝば、出來るだけ早くハイデースの門を過ぎ、厚い大地の衣の下に横はるに若くはない」
 どう云ふ聯想か、私は北の果の森林の中で、しかも耳の破れるやうな雷鳴の中に、ブチアーの中のデスペラアトな一章を思ひ出した。だが、ついに元氣だ。私は常に雜談をして自分を考へない。旅空で瞑想をしてみたところで、所詮は底ぬけに小心者で、粕ばかりで何もない空虚な躯をもてあましてゐるにしかすぎない。
 宿へ落ちつくと、婦人記者氏は人生について話しかけて來たけれど、私は此女性よりも本當はおとつてゐる。お菓子を頬ばつてゐるか眠るか雜談をしてゐるか。
 温泉は一番愉しい。私は黄昏までに三度も躯を洗つた。
 音樂が聽きたかつたが何もなかつた。
 この宿へつひに二泊。

 早朝四時半に起きて、釧路へ歸る仕度だ。
 窓をあけると、もう蜩がなきたてゝゐる。
 五時半の汽車で釧路へ向ふ。三等切符を二枚買つた。切符を切つてくれた驛長さんは、此二人の女連れに、
「もうお歸りですか」と云つた。
 釧路へは八時頃着いた。驛に荷物をあづけて、驛の前の飮食店に這入る。私の横には陸軍の將校が一人辨當をたべてゐた。私も辨
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