十時の汽車で函館へ歸へるのだと云つてゐた。茶を淹れたり菓子を擴げたりして、何とない行きずりの語らひを愉しむ。月給が三拾圓で兩親がそろつてゐるとも云つてゐた。
 風呂からあがると寢床が敷いてあつたが、熊の毛皮がこはくて、私は次の間へ寢床を引つぱつて行く、寢てゐると霧笛の音で眼がさえる。家が古いので妙におくびやうになる。夜更けて梅雨のやうな重たい雨が降つてゐた。

 六月十六日。
 北海道へ渡つて久しぶりに青い伸々とした空を見た。伊藤氏に電話して朝食をとる。土地へ行けばその土地の事を少しばかりくはしく聞いておかなければならないので、私は根室への列車の中で作つた私の旅のスケヂユールと地圖を擴げて用意をしておく。
 伊藤周吉氏はなかなかいゝひとであつた。
 お遇ひするが早いか、とにかく此宿屋を出ようではありせんか、こゝへ來たら「角大」と云ふ啄木の唄に出て來る女のひとの營むでゐる宿屋がありますと云つて、自動車を頼むでこられた。旅先きで貰つた紹介状ではあつたが、旅の情と云ふものは仲々身に沁みるものがある。
 山形屋の拂ひを濟ませて道路へ出ると、宿の前がさいはて[#「さいはて」に傍点]の驛であつた。山形屋へ泊つたこともいゝではありませんかと、いまは肥料倉庫のやうなさいはて[#「さいはて」に傍点]の舊驛を眼前にして、私は啄木の唄をまるで自らの唄のやうにくちずさんでゐた。
「さいはての驛に降り立ち雪あかり、淋しき町に歩ゆみ入りにき」さいはて[#「さいはて」に傍点]の驛の前は道が泥々してゐて、雪の頃のすがれたやうな風景を眼の裏に思ひ出す事もできた。

 啄木の唄つた女のひとは昔小奴と云つたが、いまは近江じん[#「近江じん」に傍点]さんと云つて、角大と云ふ宿屋を營なんでゐた。新しくて大きい旅館で、舊市街と新市街の間のやうなところにあつた。おじんさんは四十五歳だと云つてゐた。小奴と云ふ女のひとを現在眼の前にすると、啄木もそんなに老けてはゐない年頃だつたと思ふ。生きてゐたら、たしか五十歳位ででもあらう。誰でもひとゝほりは聞くであらう啄木との情話よりも、啄木が優しい人であつたと云ふ、何でもない※[#「插」のつくりの縦画が下に突き出す、第4水準2−13−28]話を、私は大事にきいた。おじんさんは大柄で骨ばつた人であつたが、世の常の宿屋の主のやうにぎすぎすしたところがなかつた。美しい娘さんの寫眞を持つて來て、亡くなつてしまつたのだと嘆いてゐたけれど、誰でもが聞くだらう啄木の思ひ出話よりも、娘の話をするおじんさんは、何となく私には好ましかつた。
 私は此宿屋で、釧路の町の色々な人達に遇つた。先住民族遺跡を研究してゐる吉田仁磨と云ふひとや、野尻と云ふ歌よみの人や、その他にも藤井と云ふ婦人記者の人なぞ、さうして樣々な町の歴史を此熱心な人達から聞いたのであつたが、雜記帳を持つて筆記をして歩くやうな氣持ちになる事を恐れ、私は一人で此地方の湖めぐりをしようと思ひたつた。晝飯をおじんさんに馳走になり、早々旅館を辭して、阿寒《あかん》地帶の中の一番氣むづかしい湖へコースをとつた。

 釧路の町は快晴で、天氣がいゝのか霧笛も鳴つてゐない。
 途中、啄木が勤めてゐたと云ふ釧路新聞社の前をとほつた。赤いレンガ建で、明治四十年頃の建物として相當新らしかつたのであらうが、いまは古色蒼然としてしまつて、何となくおさなびてゐてよかつた。
 霧笛を鳴らしてゐる知人岬と云ふ所にも行つてみた。岬の丘に登ると、太平洋炭鑛埋立地が南の防波堤に續き、まるで海を二ツに切つたやうに見える。樺太《からふと》でオホーツクの灰色の海ばかり見てゐた私には、釧路の海はるり色に光つてゐて天氣のいゝせいか一望にして港の中が眼にはいつて來る。
 朱い煙突を持つた浚渫船が起重機から泥を吐きながら、まるで大雨のやうな音をたてゝ動いてゐた。内地の風景と違つてどこかに底冷たさがある。
 港には船が澤山はいつてゐた。厚岸《あつけし》の海では海軍の演習があると云ふので此釧路の海も賑ふだらうと人々が話しあつてゐた。

 釧路の驛へ行くと、午後三時半の網走《あばしり》行きがあつたので、その汽車へ乘る。こゝでは角大旅館で遇つた藤井と云ふ若い婦人記者のひとが私と旅を共にすると云つて合財袋を持つて一緒の列車に乘つて來たが、いゝ人達の親切は斷りの仕樣もない。
 窓外は茫寞たる谷地で柏の木が多い。標茶《しべちや》の驛あたりより驟雨になつた。車内では川湯温泉の驛長さんが乘り合はしてゐて、色々な旅の話に興じた。
「摩周《ましう》の湖は、すぐ霧がかゝつてしまうので、運がよくないとなかなか見られませんよ」
 今日はとても見られまいとの話で、弟子屈《てしかが》温泉に泊ることにする。
 弟子屈の山小屋のやうな小さい驛へ着くと、起伏のある部落の家々には早や灯
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