な本箱を買ってござる。
いつものように弐拾円ばかりの金は、原稿用紙の下に入れると、誰もいないきやすさに、くつろいだ気持ちで、押入れの汚れものを見てみる。
「あのお手紙でございます。」
女中が持って来た手紙を見ると、六銭切手をはった、かなり厚い女の封書。
私は妙に爪を噛みながら、只ならぬ淋しさに、胸がときめいてしまった。私は自分を嘲笑しながら、押入れの隅に隠してあった、かなり厚い、女の手紙の束をみつけ出した。
――やっぱり温泉がいゝわね、とか。
――あなたの紗和子より、とか。
――あの夜泊ってからの私は、とか。
私は歯の浮くような甘い手紙に震えながらつっ立ってしまった。
二人の間はかなり進んでいるらしい。温泉行きの手紙では、私もお金を用意しますけど、貴女も少しつくって下さい、と書いてあるのを見ると、私はその手紙を部屋中にばらまいてやった。
原稿用紙の下にしいた弐拾円の金を袂に入れると、涙をふりちぎって外に出た。
あの男は、私に会うたびに、お前は薄情だとか、雑誌にかく、詩や小説は、あんなに私を叩きつけたものばかりじゃなかったか。
豚!
インバイ!
あらゆるのゝしりを男の筆の上に見た。
私は、肺病で狂人じみている、その不幸な男の為に、あのランタンの下で、「貴方一人に身も世も捨てた……」と、唄わなくちゃあならないのだ。
夕暮れの涼しい風をうけて、若松町の通りを歩いていると、新宿のカフェーにかえる気もしなかった。
ヘエ! 使い果して二分残るか、ふっとこんな言葉が思い出された。
「貴方! 私と一緒に温泉に行かない。」
私があんまり酔っぱらったので、その夜時ちゃんは淋しい瞳をして私を見ていた。
七月×日
あゝ人生いたるところに青山ありだよ、男から佗びの手紙来る。
夜。
時ちゃんのお母さん来る。五円借す。
チュウインガムを噛むより味気ない世の中、何もかもが吸殻のようになってしまった。
貯金でもして、久し振りにお母さんの顔でもみてこようかしら。
私はコック場へ行くついでにウイスキ[#「スキ」に傍点]ーを盗んで呑んだ。
七月×日
魚屋のように淋しい寝ざめ。四人の女は、ドロドロに崩れた白い液体のように、一切を休めて眠っている。私は枕元の煙草をくゆらしながら、投げ出された時ちゃんの腕を見ていた。
まだ十七で肌が桃色していた。
お母さんは雑色で氷屋をしていたが、お父つぁんが病気なので、二三日おきに時ちゃんのところへ裏口から金を取りに来た。
カーテンもない青い空を映した窓ガラスを見ていると、西洋支那御料理の赤い旗が、まるで私のように、ヘラヘラ風に膨らんでいる。
カフェーに務めるようになると、男に抱いていたイリュウジョンが夢のように消えて、皆一山いくらに品がさがってみえる。
別にもうあの男に稼いでやる必要もない故、久し振りに故里の汐っぱい風を浴びようかしら。あゝでも可哀想なあの人よ。
[#ここから2字下げ]
それはどろどろの街路であった
こわれた自動車のように私はつっ立っている
今度こそ身売りをして金をこしらえ
皆を喜こばせてやろうと
今朝はるばると幾十日目で又東京へ帰えって来たのではないか
どこをさがしたって買ってくれる人もないし
俺は活動を見て五十銭のうな丼を食べたらもう死んでもいゝと云った
今朝の男の言葉を思い出して
私はサンサンと涙をこぼしました
男は下宿だし
私が居れば宿料がかさむし
私は豚のように臭みをかぎながら
カフェーからカフェーを歩きまわった
愛情とか肉親とか世間とか夫とか
脳のくさりかけた私には
縁遠いような気がします
叫ぶ勇気もない故
死にたいと思ってもその元気もない
私の裾にまつわってじゃれていた小猫のオテクさんはどうしたろう……
時計屋のかざり窓に私は女泥棒になった目つきをしてみようと思いました。
何とうわべ[#「うわべ」に傍点]ばかりの人間がウヨウヨしている事よ
肺病は馬の糞汁を呑むとなおるって
辛い辛い男に呑ませるのは
心中ってどんなものだろう
金だ金だ
金は天下のまわりものだって云うけど
私は働いても働いてもまわってこない
何とかキセキはあらわれないものか
何とかどうにか出来ないものか
私が働いている金はどこへ逃げて行くのか
そして結局は薄情者になり
ボロカス女になり
死ぬまでカフェーだの女中だの女工だのボロカス女になり
私は働き死にしなければならないのか!
病にひがんだ男は
お前は赤い豚だと云います
矢でも鉄砲でも飛んでこい
胸くその悪るい男や女の前に
芙美子さんの膓を見せてやりたい。
[#ここで字下げ終わり]
かつて、貴方があんまり私を邪慳にするので、私はこんな詩を雑誌にかいて貴方にむくいた事がある。
浮いた稼ぎなので、焦々しているのだと善意にカイシャクしていた大馬鹿者の私です。
そうだ、帰えれる位はあるのだから、汽車に乗ってみようかな。
あの快速船のしぶきもいゝじゃないか、人参灯台の朱色や、青い海、ツヽンツンだ。
夜汽車、夜汽車、誰も見送りのない私は、スイッとお葬式のような悲しさで、何度も不幸な目に逢て乗る東海道線に身をまかせた。
七月×日
「神戸にでも降りてみようかしら、何か面白い仕事が転がってやしないかな……。」
明石行きの三等車は、神戸で降りてしまう人達ばかりだった。
私もバスケットを降ろしたり、食べ残りのお弁当を大切にしまったりして、何だか気がかりな気持ちで神戸駅に降りてしまった。
「これで又仕事がなくて食えなきぁ、ヒンケマンじゃないか、汚れた世界の罪だよ。」
暑い陽ざしだ。
だが私には、アイスクリームも、氷も用はない。ホームでさっぱりと顔を洗うと、生ぬるい水を腹いっぱい呑んで、黄ろい汚れた鏡に、みずひき草のように淋しい姿を写して見た。
さあ矢でも鉄砲でも飛んでこいだ。
別に当もない私は、途中下車の切符を大事にしまうと、楠公さんの方へブラブラ歩いていた。
古ぼけたバスケット。
静脈の折れた日傘。
煙草の吸殻よりも味気ない女。
私の戦闘準備はたったこれだけでござります。
砂ほこりの楠公さんの境内は、おきまりの鳩と絵ハガキ屋。
私は水の枯れた六角の噴水の石に腰を降ろして、日傘で風を呼びながら、汐っぱい青い空を見た。あんまりお天陽様が強いので、何もかもむき出しにぐんにゃりしている。
何年昔になるだろう――
十五位の時だったかしら、私はトルコ人の楽器屋に奉公していたのを思い出した。
ニィーナという二ツになる女の子の守りで、黒いゴム輪の腰高な乳母車に、よく乗っけてメリケン波止場の方を歩いたものだった。
クク……クク……鳩が足元近かく寄って来る。
人生鳩に生れるべし。
私は、東京の男の事を思い出して、涙があふれた。
一生たったとて、私が何千円、何百円、何拾円、たった一人のお母さんに送ってあげる事が出来るだろうか、私を可愛がって下さる行商してお母さんを養っている気の毒なお義父さんを慰さめてあげる事が出来るだろうか! 何も満足に出来ない女、男に放浪し職業に放浪する私、あゝ全く頭が痛くなる話だ。
「もし、あんたはん! 暑うおまっしゃろ、こっちゃいおはいりな……。」
噴水の横の鳩の豆を売るお婆さんが、豚小屋のような店から声をかけてくれた。
私は人なつっこい笑顔で、お婆さんの親切に報いるべく、頭のつかえそうな、アンペラ張りの店へはいって行った。
文字通り、それは小屋で、バスケットに腰をかけると、豆くさいけれど、それでも涼しかった。
ふやけた大豆が石油鑵の中につけてあった。
ガラスの蓋をした二ツの箱には、おみくじや、固い昆布がはいっていて、いっぱいほこりをかぶっていた。
「お婆さん、その豆一皿ください。」
五銭の白銅を置くと、しなびた手でお婆さんは私の手をはらった。
「ぜゞなぞほっとき。」
此お婆さんにいくつ[#「いくつ」に傍点]ですと聞くと、七十六だと云った。
虫の食ったおヒナ様のようにしおらしい。
「東京はもう地震はなおりましたかいな。」
歯のないお婆さんはきんちゃく[#「きんちゃく」に傍点]をしぼったような口をして、優さしい表情をする。
「お婆さんお上り。」
私がバスケットから、お弁当を出すと、お婆さんはニコニコして、玉子焼きを口にふくらます。
「お婆あはん、暑うおまんなあ。」
お婆さんの友達らしく、腰のしゃんとしたみすぼらしい老婆が、店の前にしゃがむと、
「お婆あはん、何ぞえゝ、仕事ありまへんやろかな、でもな、あんまりぶらぶらしてますよって、会長はんも、えゝ顔しやはらへんのでなあ、なんぞ思うてまんねえ……。」
「そうやなあ、栄町の宿屋はんやけど、蒲団の洗濯があるいうてましたけんど、なんぼう……廿銭も出すやろか……。」
「そりやえゝなあ、二枚洗ろうてもわて[#「わて」に傍点]食えますがな……。」
こだわりのない二人のお婆さんを見ていると、こんなところにもこんな世界があるのかと、淋しくなった。
とうとう夜になってしまった。
港の灯のつきそめる頃は、真実そゞろ心になってしまう。でも朝から、汗をふくんでいる着物の私は、ワッと泣たい程切なかった。
これでもへこたれないか! これでもか! 何かゞ頭をおさえているようで、私はまだまだ、と口につぶやきながら、当もなく軒をひらって歩いていると、バスケット姿が、オイチニイの薬屋よりもはかなく思えた。
お婆さんに聞いた商人宿はじきわかった。
全く国へ帰っても仕様のない私なのだ、お婆さんが、御飯焚きならあると云ったけれど。――
海岸通りに出ると、チッチッと舌を鳴らして行く船員の群が多かった。
船乗りは意気で勇ましくていゝなあ――
私は商人宿とかいてある行灯をみつけると、ジンと耳を熱くしながら、宿代を聞きにはいった。
親切そうなお上さんが、帳場にいて、泊りだけなら六十銭でいゝと、旅心をいたわるように「おあがりやす」と云ってくれた。
三畳の壁の青いのが、変に淋しかったが、朝からの浴衣を着物にきかえると、宿のお上さんに教わって、近所の銭湯に行った。
旅と云うものはおそろしいようで、肩のはらないもの。
女達は、まるで蓮の花のように小さい湯舟を囲んで、珍らしい言葉でしゃべっている。
旅の銭湯にはいって、元気な顔をしているが、あの青い壁に押されて寝る今夜の夢を思うと、私はふっと悲しくなった。
七月×日
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坊さん簪買ふたと云うた……
[#ここで字下げ終わり]
窓の下を人夫達が土佐節を唄いながら通って行く。
ランマンと吹く風に、波のように蚊屋が吹きあげて、まことに楽しみな朝の寝ざめ、郷愁をおびた土佐節を聞いていると、高松のあの港が恋いしくなった。
私の思い出に何の汚れもない四国の古里、やっぱり帰えろうかなあ……御飯焚きになってみたとこで仕用がないし……。
オイ馬鹿!
メス!
赤豚!
別れて来た男のバリゾウゴン[#「バリゾウゴン」に傍点]を、私は唄のように天井に投げとばして、バットを深々と吸った。
「オーイ、オーイ」船員達が呼びあっている。
私は宿のお上さんに頼んで、岡山行きの途中下車の切符を、除虫菊の仲買の人に壱円で買ってもらうと、私は兵庫から、高松行きの船に乗る事にした。
元気を出して、どんな場合にでも、へこたれてはならない。
小さな店屋で、瓦煎餅を一箱買うと、私は古ぼけた、兵庫の船宿で、高松行きの三等切符をかった。やっぱり国へかえりましょう。
透徹した青空に、お母さんの情熱が一本の電線となって、早く帰っておいでと呼んでいる。
不幸な娘でございます。
汚れたハンカチーフに、氷のカチ割りを包んで、私は頬に押し当てた。子供らしく子供らしく、すべては天真ランマンと世間を渡りましょう。
[#改ページ]
下谷の家
一月×日
カフェーで酔客にもらった指輪が、思いがけなく役立って、拾三円で質に入れると、私と時ちゃんは、千駄木の町
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