通りを買物しながら歩いた。
 古道具屋で、箱火鉢と小さい茶ブ台を買ったり、沢庵や茶碗や、茶呑道具まで揃えると、あと半月分あまりの間代を入れるのが、せいいっぱい。
 原稿用紙も買えない。
 拾三円の金の他愛なさよ。

 白い息を吹きながら、二人が重い荷を両方から引っぱって帰った時は、十時近かった。
「芙美ちゃん! 前のうち小唄の師匠よ、ホラ……いゝわね。」

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傘さして
かざすや廓の花吹雪
この鉢巻は過ぎしころ
紫にほふ江戸の春
[#ここで字下げ終わり]

 目と鼻の露路向うの二階屋から、沈みすぎる程、いゝ三味線の音〆、細目にあけた雨戸の蔭には、灯に明るい、障子のこまかいサン[#「サン」に傍点]が見える。
「お風呂明日にして寝ましょう……上蒲団借りた?」
 時ちゃんはピシャリと障子を締めた。

 敷蒲団はたい[#「たい」に傍点]さんと私と一緒の時代のが、たい[#「たい」に傍点]さんが小堀さんとこへお嫁に行ったので残っていた。
 あの人は鍋も、包丁も敷蒲団も置いて行ってしまった。
 一番なつかしく、一番厭な思い出の残った本郷の酒屋の二階を思い出した、同居の軍人上りや、二階でおしめ[#「おしめ」に傍点]を洗ったその妻君や、人のいゝ酒屋の夫婦や。用が片づいたら、あの頃の日記でも出して読もう――。
「どうしたかしらたい子さん!」
「今度こそ幸福になったでしょう。小堀さん、とても、ガンジョウな人だそうだから、誰が来ても負けないわ……。」
「いつか遊びに連れて行ってね。」
「あゝ……。」
 二人は、下の叔母さんから借りた上蒲団をかぶって日記をつけた。
 一、拾参円の内より
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茶ブ台      壱円。
箱火鉢      壱円。
シクラメン一鉢  卅五銭。
飯茶わん     弐拾銭  二箇。
吸物わん     参拾銭  二箇。
ワサビヅケ    五銭。
沢庵       拾壱銭。
箸        五銭   五人前。
茶呑道具 盆つき 壱円拾銭。
桃太郎の蓋物   拾五銭。
皿        弐拾銭 二枚。
間代日割り    六円。(三畳九円)
火箸       拾銭。
餅網       拾弐銭。
ニームのつゆ[#「つゆ」に傍点]杓子 拾銭。
御飯杓子     参銭。
花紙一束     弐拾銭。
肌色美顔水    弐拾八銭。
御神酒      弐拾五銭 一合。
引越し蕎麦    参拾銭  下へ。
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一、壱円弐拾六銭 残金。

「心細いなあ……。」
 私は鉛筆のしん[#「しん」に傍点]で頬っぺたを突きながら、つん[#「つん」に傍点]と鼻の高い時ちゃんの顔をこっちに向けて日記をつけた。
「炭は?」
「炭は、下の叔母さんが取りつけの所から月末払らいで取ってやるってさ。」
 時ちゃんは安心したように、銀杏返えしの鬢を細い指で持ち上げて、私の脊に手を巻いた。
「大丈夫ってばさ、明日から、うんと働らくから芙美ちゃん元気を出して勉強して。浅草を止めて、日比谷あたりのカフェーなら通いでいゝだろうと思うの酒の客が多いんだって……。」
「通いだと二人とも楽しみよ、一人じゃ御飯もおいしくないね。」

 私は煩雑だった今日の日を思った。

 萩原さんとこのお節ちゃんに、お米も二升もらったり、画描きの溝口さんは、折角北海道から送って来たと云う、餅を風呂敷に分けてくれたり、指輪を質へ持って行ってくれたり。
「当分二人でみっしり働こうね。ほんとに元気を出して……。」
「雑色のお母さんのところへは参拾円も送ればいゝんだから。」
「私も少し位は原稿料がはいるんだから、沈黙って働けばいゝのね。」
 雪の音かしら、窓に何かサヽヽヽと当っている。
「シクラメンって厭な匂いだ。」
 時ちゃんは、枕元の紅いシクラメンの鉢をそっと押しやると、簪も櫛も抜いて、「さあ寝んねおしよ。」
 暗い部屋の中で、花の匂いだけが、強く私達をなやませた。

 一月×日
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積る淡雪積ると見れば
消えてあとなき儚なさよ
柳なよかに揺れぬれど
春は心のかはたれに……
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 時ちゃんの唄声でふっと目を覚ますと、枕元に、白い素足が並んでいた。
「もう起きたの……。」
「雪が降ってるよ。」
 起きると、湯もたぎって、窓外の板の上で、御飯もグツグツ白く吹きこぼれていた。
「炭もう来たの……。」
「下の叔母さんに借りたのよ。」
 いつも台所をした事のない時ちゃんが、珍らしそうに、茶碗をふいていた。
 久し振りに、猫の額程の茶ブ台の上で、幾年にもない長閑なお茶を呑む。
「やまと舘の人達や、当分誰にもところを知らさないでおきましょうね。」
 時ちゃんはコックリをして、小さな火鉢に手をかざす。
「こんなに雪が降っても出掛ける?」
「うん。」
「じゃあ私も時事新聞の白木さんに会ってこよう、童話がいってるから。」
「もらえたら、熱いものしといて、あっちこっち行って見るから、私はおそくなるよ。」
 始めて、隣りの六畳間の古着屋さん夫婦にもあいさつ[#「あいさつ」に傍点]をする。
 鳶の頭をしていると云う、下のお上さんの旦那にも会う。
 皆、歯ぎれがよくて下町人らしい。
「前は道路へ面していたんですよ、でも火事があって、こんなとこへ引っこんじゃって……前はお妾さん、露路のつきあたりは清元でこれは男の師匠でしてね、やかましいには、やかましゅうござんすがね……。」
 私はおはぐろ[#「おはぐろ」に傍点]で歯をそめているお上さんを珍らしく見た。
「お妾さんか、道理で一寸見たけどいゝ女だったよ。」
「でも下の叔母さんが、あんたの事を、此近所には一寸居ない、いゝ娘ですってさ。」
 二人は同じような銀杏返しをならべて雪の町へ出た。
 雪はまるで、気の抜けた泡のように、目も鼻もおおい隠そうとする程、元気に降っていた。
「金もうけは辛いね。」
 ドンドン降ってくれ、私が埋まる程、私はえこじ[#「えこじ」に傍点]に、傘をクルクルまわして歩いた。
 どの窓にも灯のついている八重洲の通りは、紫や、紅のコートを着た、務めする女の人達が、やっぱり雪にさからって[#「さからって」に傍点]いる。
 コートも着ない私の袖は、ぐっしょり濡れてしまって、みじめなヒキ蛙。
 白木さんはお帰えりになった後か、そうれ見ろ!
 これだから、やっぱりカフェーで働くと云うのに、時ちゃんは勉強しろと云う。広い受付けに、このみじめ[#「みじめ」に傍点]な女は、かすれた文字をつらねて、困っておりますから[#「困っておりますから」に傍点]とおきまりの置手紙を書いた。
 だが時事のドアーは面白いな、クルリクルリ、水車、クルリと二度押すと、前へ逆もどり、郵便屋が笑っていた。
 何と小さき人間達よ、ビルデングを見上げると、お前なんか一人生きてたって、死んだって同じじゃないかと云う。
 だが、あのビルデングを売ったら、お米も間代も一生はらえて、古里に長い電報が打てるだろう。
 ナリキン[#「ナリキン」に傍点]になるなんて、云ってやったら、邪けんな親類も、冷たい友人も、驚くだろう。

 あさましや芙美子
 消えてしまえ。

 時ちゃんは、かじかんで[#「かじかんで」に傍点]、この雪の中を野良犬のように歩いているんだろうに――

 二月×日
 あゝ今晩も待ち呆け。
 箱火鉢で茶をあたゝめて、時間はずれの御飯をたべる。
 もう一時すぎなのになあ――。
 昨夜は二時、おとゝいは一時半、いつも十二時半にはきちんと帰えっていた人が、時ちゃんに限って、そんな事もないだろうけれど……。
 茶ブ台の上には、若草への原稿が二三枚散らばっている。
 もう家には拾壱銭しかないのだ。
 きちんきちんと、私にしまわせていた拾円たらずのお金を、いつの間にか持って出てしまって、昨日も聞きそこなってしまったが。

 蒸してはおろし、蒸してはおろしするので、御飯はビチャビチャしていた。浜鍋の味噌も固くなってしまった。インガな人だなあ、原稿も書けないので、鏡台のそばに押しやって、淋しく床をのべる。
 あゝ髪結さんにも行きたいなあ、もう十日あまりも銀杏返えしをもたせて、地がかゆい。
 帰えって来る人が淋しいだろうと、電気をつけて、紫の布をかけておく。

 三時。
 下のお上さんのブツブツ云う声に目を覚ますと、ドタン、ドタン時ちゃんが大きな足音で上って来る。酔っぱらっているらしい。
「すみません!」
 蒼ざめた顔に、髪を乱して、紫のコートを着た時ちゃんが、蒲団の裾にくず折れると、まるで駄々っ子のように泣き出してしまった。
 私は言葉をあんなに用意してまっていたのに、一言も云えなくて沈黙っていた。

「さよなら時ちゃん!」
 若々しい男の声が消ると、露路口で間抜けた自動車の警笛が鳴った。

 二月×日
 二人共面伏せな気持ちで御飯をたべた。
「此頃は少しなまけているから、梯子段を拭いてね、私洗濯するから……。」
「私するから、こゝほっといていゝよ。」
 寝ぶそくな、はれぽったい時ちゃんの瞼を見ると、たまらなくいじらしくなる。
「時ちゃん、その指輪どうして……。」
 かぼそい薬指に、サンゼンと白い石が光って台はプラチナだった。
「紫のコートは……。」
「……」
「時ちゃんは貧乏が厭になってしまった?」
 私は下の叔母さんに顔を合わせる事は肌が痛くなる。

「姉さん! 時坊は少しどうかしてますよ。」
 水道の水と一緒に、叔父さんの言葉が痛く来た。
「近所のてまえがありまさあね、夜中に自動車をブウブウやられちゃあね、町内の頭なんだから、一寸でも風評が立つと、うるさくてね……。」
 あゝ御もっとも様で、洗いものをしている脊にビンビン言葉が当って来る。

 二月×日
 時ちゃんが帰らなくなって五日。
 ひたすらに時ちゃんのたよりを待つ。

 彼の女はあんな指輪や、紫のコートのおとり[#「おとり」に傍点]に負けてしまった。
 生きてゆくめあてのないあの女の落ちてゆく道かも知れない。
 あんなに貧乏はけっして恥じゃあないと云ってあるのに……十八の彼の女は紅も紫も欲しかった。私は五銭あった銅銭で、駄菓子を五ツ買って来ると、床の中で古雑誌を読みながらたべた。

 貧乏は恥じゃあないと云ったものゝあと五ツの駄菓子は、しょせん[#「しょせん」に傍点]私の胃袋をさいど[#「さいど」に傍点]してはくれぬ。手を延ばして押し入れをあけて見る。白菜の残りをつまみ、白い御飯の舌ざわりを空想する。
 何もない。
 漠々。
 涙がにじんで来る。
 電気でもつけよう……駄菓子ではつまらないと見えて腹がグウグウ……辛気に鳴る。
 隣りの古着屋さんの部屋では、ジ……と秋刀魚を焼く強烈な匂いがする。
 食慾と性慾!
 時ちゃんじゃないが、せめて一碗のめしにありつこうか。
 食慾と性慾!
 私は泣きたい気持ちで、此の言葉を噛んだ。

 二月×日
[#ここから2字下げ]
芙美子さま。
何も云わないでかんにんして下さい。指輪をもらった人に強迫されて、浅草の待合に居ます。
妻君があるんですけど、それは出してもいゝって云うんです。
笑わないで下さい。その人は請負師で、今四十二です。
着物を沢山こしらえてくれましたの貴女の事も話したら、四拾円位は毎月出してあげると云ってました。
私嬉しいんです。
[#ここで字下げ終わり]

 読むにたえない時ちゃんの手紙の上に、こんな筈ではなかったと、涙が火のようにむせた。
 歯が金物のようにガチガチ鳴った。
 私がそんな事をいつたのんだ[#「いつたのんだ」に傍点]! 馬鹿馬鹿こんなにも、こんなにもあの十八の女はもろかったのか!
 目が円くふくれ上がって、見えなくなる程泣きじゃくった私は、時ちゃんへ向って呼んで見た。
 所を知らせないで。浅草の待合なんて……。
 四十二の男!
 きもの[#「きもの」に傍点]、きもの[#「きもの」に傍点]。
 指輪もきもの[#「きもの」に傍点]もなんだ真念のない女よ!

 あゝでも、野百合のように可憐であっ
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