ムスンの飢ゑ[#「飢ゑ」に傍点]と云う小説の中にも、蝋燭を買いに行って、五クローネルのつり銭と蝋燭をたゞでもらって来るところがありましたね。」
 私も夫も、壺井さんの話は非常にうらやましかった。

 梟の鳴いている、憂欝な森陰に、泥沼に浮いた船のように、何と淋しい長屋だろう。
 屍室と墓地と病院と、淫売宿のようなカフェーに囲まれた、この太子堂の家もあきあきしてしまった。
「時に、明日はたけのこ[#「たけのこ」に傍点]飯にしないかね。」
「たけのこ[#「たけのこ」に傍点]盗みに行くか……。」
 三人の男たちは路の向うの、竹籔を背にしている、床屋の二階の飯田さんをさそって、裏の丘へたけのこ[#「たけのこ」に傍点]盗みに出掛けて行った。

 女達は街の灯を見たかったけれど、あきらめて、太子堂の縁日を歩いた。
 竹籔の小路に出した露店のカンテラの灯が噴水の様に薫じていた。

 六月×日
 ほがらかな空なので、丘の上の絹のような緑を恋いして、久し振りに、貧しい女と男は散歩に出る話をした。
 鍵を締めて、一足おくれて出ると、どっちへ行ったものか、男の蔭は見えない。
 焦々して、陽照りのはげしい丘の路を行ったり来たりしたが、随分おかしな[#「おかしな」に傍点]話である。
 あざみの茎のように怒りたった男は、私の背をはげしく突くと閉ざした家へはしってしまった。
「オイ! 鍵を投げろッ!」
 又か……私は泥棒猫のように、台所からはいると、男はいきなり、たわし[#「たわし」に傍点]や茶碗を私の胸に投げつける。

 あ、この瓢軽な粗忽者を、そんなにも貴方は憎いと云うのか……私はしょんぼり井戸端に立って、蒼い雲を見た。
 右へ行く路が、左へまちがったからって、馬鹿だねえと云う一言ですむではないか。
 私は自分の淋しい影を見ていると、ふっと小学校時代に、自分の影を見ては空を見ると、その影が、空にもうつっているあの不思議な世界のあった頃を思い出して、高々とした空を私は見上げた。
 悲しい涙が湧きあふれて、私は地べたへしゃがむと、カイロの水売りのような郷愁の唄をうたいたくなった。

 あゝ全世界はお父さんとお母さんでいっぱいなんだ。お父さんとお母さんの愛情が、唯一のものであると云う事を、私は生活にかまけて忘れておりました。
 前垂れを掛けたまゝ竹籔や、小川や洋館の横を通って、だらだらと丘を降りると、ポッポッ! ポッポッ! 蒸汽船のような音がする。
 あゝ尾の道の海! 私は海近いような錯覚をおこして、子供のように丘をかけ降りた。
 そこは交番の横の工場のモーターが唸っているきりで、がらんとした広っぱ。
 三宿の停留場に、しばし私は電車に乗る人のように立っていたが、お腹がすいて、めがまいそうだった。
「貴女! 随分さっきから立っていらっしゃいますが、何か御心配ごとでもあるのではありませんか。」
 今さきから、じろじろ私を見ていた、二人の老婆が馴々しく近よると私の身体を四つの瞳で洗うように見た。
 笑いながら涙をふりほどいている私を連れて、この親切なお婆さんは、ゆるゆる歩きだすと、信仰の強さについて、足の曲った人が歩けるようになったとか、悩みある人が、神の子として、元気に生活に楽しさを感じるようになったとか、天理教の話をしてくれた。

 川添いのその天理教の本部は、いかにも涼しそうに庭に水が打ってあって、紅葉の青葉が、塀の外にふきこぼれていた。
 二人の婆さんは神前に額ずくと、やがて両手を拡げて、異様な踊りを始めだした。

「お国はどちらでいらっしゃいますか?」
 白い着物をきた中年の男が、私にアンパンと茶をすゝめながら、私の佗しい姿を見た。
「別に国と云って定まったところはありませんけれど、原籍は鹿児島県東桜島です。」
「ホウ……随分遠いんですなあ……。」
 私はもうたまらなくなって、うまそうなアンパンを摘んで、一口噛むと、案外固くって、粉がボロボロ膝にこぼれ落ちていった。
 何もない。
 何も考える必要はない。
 私はつと立って神前に額ずくと、プイと下駄をはいて表へ出てしまった。
 パン屑が虫歯の洞穴の中で、ドンドンむれていってもいゝ。只口の中に味覚があればいゝのだ。
 家の前へ行くと、あの男と同じ様に固く玄関は口をつぐんでいる。
 私は壺井さんの家へ行くと、はろばろと足を投げ出して横になった。
「お宅に少しお米ありませんか?」
 人のいゝ壺井さんの妻君もへこたれて、私のそばに横になると、一握の米を茶碗に入れたのを持って、生きる事が厭になってしまったわと云う話になってしまった。
「たい子さんとこ、信州から米が来たって云ってたから、あそこへ行ってみましょう。」
「そりゃあ、えゝなあ……。」
 そばにいた伝治さんの妻君は両手を打って子供のように喜ぶ。真実いとしい人だ。

 六月×日
 久し振りに東京へ出る。
 新潮社で加藤さんに会う。詩の稿料六円戴く。
 いつも目をつぶって通る、神楽坂も今日は素的に楽しい街になって、店の一ツ一ツを覗いて通る。

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隣人とか
肉親とか
恋人とか
それが何であろう
生活の中の食うと云う事が満足でなかったら
画いた愛らしい花はしぼんでしまう
快活に働きたいものだと思っても
悪口雑言の中に
私はいじらしい程小さくしゃがんでいる

両手を高くさしあげてもみるが
こんなにも可愛いゝ女を裏切って行く人間ばかりなのか
いつまでも人形を抱いて沈黙っている私ではない
お腹がすいても
職がなくっても
ウオオ! と叫んではならないんですよ
幸福な方が眉をおひそめになる。

血をふいて悶死したって
ビクともする大地ではないんです
陳列箱に
ふかしたてのパンがあるが
私の知らない世間は何とまあ
ピアノのように軽やかに美しいのでしょう

そこで始めて
神様コンチクショウと吐鳴りたくなります。
[#ここで字下げ終わり]

 長い電車に押されると、又何の慰さめもない家へ帰えらなければならない。
 詩を書く事がたった一つのよき慰さめ。
 夜飯田さんとたい子さんが唄いながら遊びに来る。
[#ここから2字下げ]
俺んとこの
あの美しい
ケッコ ケッコ鳴くのが
ほしいんだろう……
[#ここで字下げ終わり]
 壷井さんとこで、豆御飯をもらう。

 六月×日
 今夜は太子堂のおまつり。
 家の縁から、前の広場の相撲場がよく見えるので、皆集って見る。
「西! 前田河ア」
と云う行司の呼ぶ声に、縁側に爪先立っていた私達はドッと吹き出して哄笑した。
 知った人の名前なんか呼ばれると、とてもおかしくて堪らない。
 貧乏していると、皆友情以上に、自分をさらけ出して一つになってしまう。
 みんなよく話をした。
 怪談なんかに話が飛ぶと、たい子さんは千葉の海岸で見た人魂の話をよくした。
 この人は山国の生れか非常に美しい肌をもっている。やっぱり男に苦労する人だ。
 夜更け一時過ぎまで花弄をする。

 六月×日
 萩原さん遊びに来る。
 酒は呑みたし金はなしで、敷蒲団一枚屑屋に壱円五拾銭で売る。
 お米がたりなかったので、うどんの玉をかってみんなで食べる。

 酒の代りに焼酎を買って来る。
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平手もて
吹雪にぬれし顔を拭く
反共産を主義とせりけり

酒呑めば鬼のごとくに青かりし
大いなる顔よ
かなしき顔よ。
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 あゝ若人よ! いゝじゃないか、いゝじゃないか、唄を知らない人達は、啄木を高唱してうどんをつゝき焼酎を呑んだ。

 その夜、萩原さんを皆と一緒におくって行った夫が帰えって来ると、蚊帳がないので、部屋を締め切って、蚊取り線香をつけて寝につくと、
「オーイ起ろ起ろ!」ドタドタと大勢の足音がして、麦ふみのように地ひゞきが頭にひゞく。
「寝たふりをするなよお……。」
「起きているんだろう。」
「起きないと火をつけるぞ!」
「オイ! 大根を抜いて来たんだよ、うまいよ起きないかい……。」
 飯田さんと萩原さんの声が入りまじって聞える。
 私は笑いながら沈黙っていた。

 七月×日
 朝、寝床の中ですばらしい新聞を読んだ。
 元野子爵夫人が、不良少年少女の救済をすると云うので、円満な写真が新聞に載っていた。
 あゝこんな人にでもすがってみたなら、何とか、どうにか、自分の行く道が開けはしないかしら……私も少しは不良じみているし、まだ廿二だもの、不良少女か、私は元気を出して飛びおきると、新聞に載っている元野夫人の住所を切り抜いて私は麻布のそのお邸へ出掛けて行った。

 折目がついていても浴衣は浴衣だけど、私は胸を空想で、いっぱいふくらませていた。
「パンおつくりになる、あの林さんでいらっしゃいますか?」
 どういたしまして、パンを戴きに上りました林ですと心につぶやきながら、
「一寸おめにかゝりたいと思いまして……。」
「そうですか、今愛国婦人会の方ですが、すぐお帰えりですから。」
 女中さんに案内されて、六角のように突き出た窓ぎわのソファーに私は腰をかけて、美しい幽雅な庭にみいっていた。
 蒼っぽいカーテンを通して、風までが高慢にふくらんではいって来る。
「何う云う御用で……。」
 やがてずんぐりした夫人は、蝉のように薄い黒い夏羽織を着てはいって来た。
「あのお先きにお風呂をお召しになりませんか……。」
 どうも大したものだ、私は不良少女だって云う事が厭になって夫が肺病で困っていますから、少し不良少年少女をお助けになるおあまりを戴きたいと云った。
「新聞で何か書いたようでしたが、ほんのそう云う事業にお手助けしているきりで、お困りのようでしたら、九段の婦人会の方へでもいらっして、仕事をなさっては……。」
 程よく埃のように外にほうり出されると、彼女が、眉をさかだてなぜあの様な者を上へ上げましたッ! と女中を叱っているであろう事を思い浮べて、ツバキをひっかけてやりたくなった。
 へエ! 何が慈善だよ、何が公共事業だよだ。

 夕方になると、朝から何も食べない二人は暗い部屋にうずくまって、当のない原稿を書いた。
「ねえ、洋食を食べない……。」
「ヘエ!」
「カレーライス、カツライス、それともビフテキ?」
「金があるのかい?」
「うん、だって背に腹はかえられないでしょう、だから晩に洋食を取れば、明日の朝まで金を取りにこないでしょう。」

 始めて肉の匂をかぎ、ジュンジュンした油をなめると、めまいがしそうに嬉しくなる。
 一口位いは残しておかなくちゃ変よ、腹が少し豊かになると、生きかえったように私達は思想に青い芽をふかす。
 全く鼠も出ない有様なんだから――。

 蜜柑箱の机に凭れて童話をかき始める。
 外は雨の音、玉川の方で、ポンポン絶え間なく鉄砲を打つ音がする。深夜だと云うのに、元気のいゝ事だ。
 だが、いつまでも、こんな虫みたいな生活が続くのかしら、うつむいて子供の無邪気な物語りを書いていると。つい目頭が熱くなる。

 イビツ[#「イビツ」に傍点]な男とニンシキフソク[#「ニンシキフソク」に傍点]の女では、一生たったとて、白いおまんまが食えそうもないね。
[#改ページ]

   女の吸殻

 七月×日
[#ここから2字下げ]
丘の上に松の木が一本
その松の木の下で
じっと空を見ていた私です

真蒼い空に老松の葉が
針のように光っていました
あゝ何と云う生きる事のむつかしさ
食べると云う事のむつかしさ

そこで私は
貧しい袂を胸にあわせて
古里に養われていた頃の
あのなつかしい童心で
コトコト松の幹を叩いてみました。
[#ここで字下げ終わり]

 この老松[#「老松」に傍点]の詩をふっと思い出すと、とても淋しくて、黒ずんだ緑の木立ちの間を、私は野良犬のように歩いた。
 久さし振りに、私の胸にエプロンもない。お白粉もうすい。
 日午傘[#「日午傘」はママ]くるくる廻わしながら、私は古里を思い出し、丘のあの松の木を思い浮べた。

 下宿にかえると、男の部屋には、大きな本箱がふえていた。
 女房をカフェーに働かして、自分はこん
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