中の女を愛してやったろうに……沈黙った女は花のように匂いを遠くまで運んで来るものだ。
泪のにじんだ目をとじて、まぼしい灯に私は額をそむけた。
一月×日
朝の芋がゆ[#「がゆ」に傍点]にも馴れてしまった。
東京で吸う、赤い味噌汁はいゝな、里芋のコロコロしたのを薄く切って、小松菜と一緒にたいた味噌汁はいゝな。荒巻き鮭の一片一片を身をはがして食べるのも甘味い。
大根の切り口みたいなお天陽様ばかり見ていると、塩辛いおかずでもそえて、甘味しい茶漬けでも食べてみたいと、事務を取っている私の空想は、何もかも淡々しく子供っぽくなって来る。
雪の頃になると、いつも私は足指に霜やけが出来て困った。
夕方、荷箱をうんと積んである蔭で、私は人にかくれて思い切り足をかいた。赤く指がほてって、コロコロにふくれあがると、針でも突きさしてやりたい程切なくて仕様がなかった。
「ホウ……えらい霜やけやなあ。」
番頭の兼吉さんが驚いたように覗いていた。
「霜やけやったら、煙管でさすったら一番や。」
若い番頭さんは元気よくすぽんと煙草入れの筒を抜くと、何度もスパスパ吸っては火ぶくれたような赤い私の足指を煙管の頭でさすってくれた。
もうけ[#「もうけ」に傍点]話ばかりしているこんな人達の間にもこんな真心がある。
二月×日
「お前は七赤金星で金は金でも、金屏風の金だから小綺麗な仕事をしなけりゃ駄目だよ。」
よく母がこんな事を云っていたが、こんなお上品な仕事はじきに退屈してしまう。
あきっぽくって、気が小さくて、じき人にまいってしまって、わけもなくなじめない私のさが[#「さが」に傍点]の淋しさ……あゝ誰もいないところで、ワアッ! と叫びあがりたい程、焦々する。
いゝ詩をかこう。
元気な詩をかこう。
只一冊のワイルド・プロフォディスにも楽しみをかけて読む。
――私は灰色の十一月の雨の中を嘲けり笑うモッブにとり囲まれていた。
――獄中にある人々にとっては涙は日常の経験の一部分である。人が獄中にあって泣かない日は、その人の心が堅くなっている日で、その人の心が幸福である日ではない。
夜々の私の心はこんな文字を見ると、まことに痛んでしまう。
お友達よ! 肉親よ! 隣人よ! わけのわからない悲しみで正直に私は私を嘲笑うモッブが恋いしくなった。
お糸さんの恋愛にも祝福あれ!
夜、風呂にはいってじっと天窓を見ていると、キラキラ星がこぼれていた。忘れかけたものをふっと思い出したように、つくづく一人ぼっちで星を見た。
老いぼれた私の心に反比例して、肉体のこの若さよ。赤くなった腕をさしのべて風呂いっぱいに体をのばすと、ふいと女らしくなって来る。
結婚しよう!
私はしみじみとお白粉の匂いをかいだ。眉もひき、口唇も濃くぬって、私は柱鏡のなかの幻にあどけない笑顔をこしらえてみた。
青貝の櫛もさして、桃色のてがらもかけて髷も結んでみたい。
弱きものよ汝の名は女なり、しょせんは世に汚れた私で厶います。美しい男はないものか……。
なつかしのプロヴァンスの歌でもうたいましょうか、胸の燃えるような思いで私は風呂桶の中に魚のようにくねってみた。
二月×日
街は春の売出しで赤い旗がいっぱい。
女学校時代のお夏さんの手紙をもらって、私は何もかも投げ出して京都へ行きたくなった。
――随分苦労なすったんでしょう……と云う手紙を見ると、いゝえどういたしまして、優さしいお嬢さんのたよりは、男でなくてもいゝものだ、妙に乳くさくて、何かぷんぷんいゝ匂いがする。
これが一緒に学校を出たお夏さんのたよりだ。八年間の年月に、二人の間は何百里もへだたってしまった。
お嫁にも行かないで、じっと日本画家のお父さんのいゝ助手として孝行しているお夏さん!
泪の出るようないゝ手紙だ。ちっとでも親しい人のそばに行って色々の話を聞いてもらおう――。
お店から一日ひまをもらうと、鼻頭がジンジンする程寒い風にさからって、京都へ立った。
午後六時二十分。
お夏さんは黒いフクフクとした、肩掛に蒼白い顔をうずめて、むかえに出てくれた。
「わかった?」
「ふん。」
沈黙って冷く手を握りあった。
赤い色のかった服装を胸に描いて来た私にお夏さんの姿は意外だった。まるで未亡人か何かのように、何もかも黒っぽい色で、唇だけがぐいと強よく私の目を射た。
椿の花のように素的にいゝ唇。
二人は子供のようにしっかり手をつなぎあって、霧の多い京の街を、わけのわからない事を話しあって歩いた。
昔のまゝに京極の入口には、かつて私達の胸をさわがした封筒が飾窓に出ている。
だらだらと京極の街を降りると、横に切れた路地の中に、菊水と云ううどんやを見つけて私達は久し振りに明るい灯の下に顔を見合わせた。私は一人立ちしていても貧乏、お夏さんは親のすねかじりで勿論お小遣もそんなにないので、二人は財布を見せあいながら、狐うどんを食べた。
女学生らしいあけっぱなしの気持で、二人は帯をゆるめてはお変りをしては食べた。
「貴女ぐらいよく住所の変る人ないわね、私の住所録を汚して行くのはあんた一人よ。」
お夏さんは黒い大きな目をまたゝきもさせないで私を見た。
甘えたい気持でいっぱい。
丸山公園の噴水にもあいてしまった。
二人はまるで恋人のようによりそって歩いた。
「秋の鳥辺山はよかったわね。落葉がしていて、ほら二人でおしゅん伝兵衛の墓にお参りした事があったわね……。」
「行ってみようか!」
お夏さんは驚いたように瞳をみはった。
「貴女はそれだから苦労するのよ。」
京都はいゝ街だ。
夜霧がいっぱいたちこめた向うの立樹のところで、キビッキビッ夜鳥が鳴いている。
下鴨のお夏さんの家の前が丁度交番になっていて、赤い灯がポッカリとついていた。
門の吊灯籠の下をくゞって、そっと二階へ上ると、遠くの寺でゆっくり鐘を打つのが響いて来る。
メンドウな話をくどくどするより、沈黙ってよう……お夏さんが火を取りに下に降りると、私は窓に凭れて、しみじみ大きいあくびをした。[#地から2字上げ]――一九二六――
[#改ページ]
百面相
四月×目
地球よパンパンとまっぷたつに割れてしまえ! と怒鳴ったところで、私は一匹の烏猫、世間様は横目で、お静かにお静かにとおっしゃる。
又いつもの淋しい朝の寝覚め、薄い壁に掛った、黒い洋傘を見ていると、色んな形に見えて来る。
今日も亦此男は、ほがらかな桜の小道を、我々プロレタリアートよなんて、若い女優と手を組んで、芝居のせりふを云いあいながら行く事であろう。
私はじっと脊を向けて寝ている男の髪の毛を見ていた。
あゝこのまゝ蒲団の口が締って、出られないようにしたら……。
――やい白状しろ!――なんて、こいつにピストルでも突きつけたら、此男は鼠のようにキリキリ舞いしてしまうだろう。
お前は高が芝居者じゃあないか。インテリゲンチャのたいこもちになって、我々同志よ! もみっともない。
私はもうお前にはあいそ[#「あいそ」に傍点]がつきてしまった。
お前さんのその黒い鞄には、二千円の貯金帳と、恋文が出たがって、両手を差出していたよ。
「俺はもうじき食えなくなる。誰かの一座にでもはいればいゝけど……俺には俺の節操があるし。」
私は男にとても甘い女です。
その言葉を聞くと、サンサンと涙をこぼして、では街に出ましょうか。
そして私は此四五日、働く家をみつけに、魚の腸のように疲れては帰って来ていたのに……此嘘突き男メ! 私はいつもお前が用心して鍵を掛けているその鞄を、昨夜そっと覗いてみたのだよ。
二千円の金額は、お前さんが我々プロレタリアと言っている程少くもなかろう。
私はあんなに美しい涙を流したのが莫迦らしくなった。
二千円と、若い女優がありゃ、私だったら当分長生きが出来る。
あゝ浮世は辛うごさりまする。
こうして寝ているところは円満な御夫婦、冷い接吻はまっぴらだよ。
お前の体臭は、七年も連れそった女房や、若い女優の匂いでいっぱいだ。
お前はそんな女の情慾を抱いて、お務めに私の首に手を巻いてくる。
どいておくれよッ!
淫売でもした方が、気づかれがなくて、どんなにいゝか知れやしない。
私は飛びおきると男の枕を蹴ってやった。嘘突きメ! 男は炭団のようにコナゴナに崩れていった。
ランマンと花の咲き乱れた四月の空は赤旗だ、地球の外には、颯々として熱風が吹きこぼれて、オーイオーイ見えないよび声が四月の空に弾けている。
飛び出してお出でよッ!
誰も知らないところで働きましょう。茫々として霞の中に私は太い手を見た。真黒い腕を見た。
四月×日
[#ここから2字下げ]
一度はきやすめ二度は嘘
三度のよもやにしかされて……
[#ここで字下げ終わり]
憎らしい私の煩悩よ、私は女でございました。やっぱり切ない涙にくれまする。
[#ここから2字下げ]
鶏の生胆に
花火が散って夜が来た
東西! 東西!
そろそろ男との大詰が近づいたよ
一刀両断に切りつけた男の腸に
メダカがぴんぴん泳いでいた
臭い臭い夜だよ
誰も居なけりや泥棒にはいりますぞ!
私は貧乏故男も逃げて行きました
あゝ真暗い頬かぶりの夜だよ。
[#ここで字下げ終わり]
土を凝視めて歩いていると、しみじみ悲しくて、病犬のようにふるえて来る。なにくそ! こんな事じゃあいけないね。
美しい街の舗道を今日も私は、――女を買ってくれないか、女を売ろう……と野良犬のように彷徨した。
引き止めても引き止まらない、切れたがるきずな[#「きずな」に傍点]ならば此男ともあっさり別れよう……。
窓外の名も知らぬ大樹の、たわゝに咲きこぼれた白い花に、小さい白い蝶々が群れて、いゝ匂いがこぼれて来る。
夕方、お月様に光った縁側に出て男の芝居のせりふ[#「せりふ」に傍点]を聞いていると、少女の日の思い出が、ふっと花の匂いのように横切って、私も大きな声で――どっかにいゝ男はいないか! とお月様に怒鳴りたくなった。
此男の当り芸は、かつて芸術座の須磨子とやった剃刀と云う芝居だった。
私は少女の頃、九州の芝居小屋で、此男の剃刀を見た事がある。
須磨子のカチウシャもよかった。あれからもう大分時がたつ、此男も四十近い年だ。
「役者には、やっぱり役者のお上さんがいゝんですよ。」
一人稽古をしている、灯に写った男の影を見ていると、やっぱり此男も可哀想だと思わずにはいられない。
紫色のシェードの下に、台本をくっている男の横顔が、絞って行くように、私の目から遠のいてしまう。
「旅興行に出ると、俺はあいつと同じ宿をとった、あいつの鞄も持ってやったっけ……でもあいつは俺の目を盗んでは、寝巻きのまゝあの男の宿へ忍んで行っていた。
俺はあの女を泣かせる事に興味を覚えていた。あの女を叩くと、まるで護謨のように弾きかえって、体いっぱい力を入れて泣くのが、見ていてとてもいゝ気持だった。」
二人で縁側に足を投げ出していると、男は灯を消して、七年も連れ添っていた別れた女の話をする。
私は圏外に置き忘れられた、一人の登場人物だ、茫然と夜空を見ていると、此男とも駄目だよ……あまのじゃく[#「あまのじゃく」に傍点]がどっかで哄笑している。
私は悲しくなると、足の裏がかゆくなる。一人でしゃべっている男のそばで、私はそっと、月に鏡をかたぶけて見た。
眉を濃く引いた私の顔が渦のようにぐるぐる廻ってゆく、世界中が月夜のような明るさだったらいゝだろう――。
「ねえ、やっぱり別れましょうよ、何だか一人でいたくなったの……もうどうなってもいゝから一人で暮したい。」
男は我にかえったように、太い息を切ると涙をふきちぎって、別れと云う言葉の持つ一種淋しいセンチメンタルに、サメザメと涙を流して私を抱こうとする。
これも他愛のないお芝居か、さあこれから忙がしくなるぞ、私は男を二階に振り捨てると、動坂の町へ走って出
前へ
次へ
全23ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング