た。
誰も彼も握手をしましょう、ワンタンの屋台に、首をつっこんで、まず支那酒をかたぶけて、私は味気ない男の接吻を吐き捨てた。
四月×日
「じゃあ行って来ます。」
街の四ツ角で、まるで他人よりも冷やかに、私も男も別れた。
男は市民座と云う小さい素人劇をつくっていて、滝ノ川の小さい稽古場に毎日通っていた。
私も今日から通いでお務めだ。
男に食わしてもらう事は、泥を噛んでいるよりも辛い、程のいゝ仕事よりもと、私のさがした職業は牛屋の女中さん。
「ロースあおり一丁願いますッ!」
景気がいゝじゃないか、梯子段をトントン上って行くと、しみじみ美しい歌がうたいたくなる。
広間に群れたどの顔も、面白いフィルムだ。
肉皿を持って、梯子段を上がったり降りたり、私の前帯の中も、それに並行して少しずゝ[#「少しずゝ」はママ]ふくらんで来る。
どこを貧乏風が吹くかと、部屋の中は甘味しそうな肉の煮える匂いでいっぱいだ。
だが上ったり降りたりで、いっぺんに私はへこたれてしまった。
「二三日すると、すぐ馴れてしまうわ。」
女中頭の、髷に結ったお杉さんが、腰をトントン叩いている私を見て、慰さめてくれたりした。
十二時になっても、此店は素晴らしい繁昌で、私は帰るのに気が気ではなかった。
私とお満さんをのぞいては、皆住込みなので、平気で残った客にたかって、色々なものをねだっている。
「たあさん、私水菓子ね。……。」
「あら私かもなん[#「かもなん」に傍点]よ……。」
まるで野性の集りだ、笑っては食い笑っては食い無限に時間がつぶれて行きそうで私は焦らずにはいられなかった。
私がやっと店を出た時は、もう一時近くて、店の時計がおくれていたのか、市電はとっくになかった。
神田から田端までの路のりを思うと、私はペシャペシャに座ってしまいたい程悲しかった。
街の灯は狐火のように、一つ一つ消えて、仕方なく歩き出した私の目にも段々心細くうつって来た。
上野公園下まで来ると、どうにも動けない程、山下が恐ろしくて、私は棒立ちになってしまった。
雨気を含んだ風が吹いて、日本髪の両鬢を鳥のように羽ばたかして、私はしょんぼり、ハタハタと明滅する仁丹の広告灯にみいっていた。
どんな人でもいゝから、山下を通る人があったら、道連れになってもらおう……私はぼんやり広小路を見た。
こんなにも辛い思いをして、私はあいつに真実をつくさなければならないのだろうか? 不意にハッピを着て自転車に乗った人が、さっと煙のように過ぎた。
何もかも投げ出したいような気持で、
「貴方は八重垣町の方へいらっしゃるんじゃあないんですかッ!」
と私は叫んだ。
「えゝそうです。」
「すみませんが、田端まで帰るんですけど、貴方のお出でになるところまで道連れになって戴けませんでしょうか?」
今は一生懸命、私は尾を振る犬のように走って行くと、その職人体の男にすがった。
「使いがおそくなったんですが、もしよかったら自転車にお乗んなさい。」
もう何でもいゝ私はポックリの下駄を片手に、裾をはし折ってその人の自転車の後に乗せてもらった。
しっかりとハッピの肩に手を掛けて、この奇妙な深夜の自転車乗りの女は、サメザメと涙をこぼした。
無事に帰れますように……何かに祈らずにはいられなかった。
夜目にも白く、染物とかいてある、ハッピの字を見て、ホッと安心すると、私はもう元気になって、自然に笑い出したくなった。
根津でその職人さんに別れると、又私は漂々とどゝいつを唱いながら路を急いだ。
品物のように冷い男のそばへ……。
四月×日
国から、汐の香の高い蒲団を送って来た。
フカフカとしたお陽様に照らされた縁側の上に、蒲団を干していると、父様よ母様よと口に出して唱いたくなる。
今晩は市民座の公演会、男は早くから、化粧箱と着物を持って出かけてしまった。
私は水をもらわない植木鉢のように干からびた情熱で、キラリキラリ二階の窓から、男のいそいそとした後姿を見てやった。
夕方四谷の三輪会館に行くと、もういっぱいの人で、舞台は例の剃刀だった。
男の弟は目ざとく私を見つけると、パチパチと目をまばたきさせて、――姉さんはなぜ楽屋に行かないの……人のいゝ大工をしている此弟の方は、兄とは全く別な世界に生きている人だった。
舞台は乱暴な夫婦喧嘩だ。
おゝあの女だ、いかにも得意らしくしゃべっているあいつの相手女優を見ていると、私は始めて女らしい嫉妬を感じずにはいられなかった。
男はいつも着て寝る寝巻きを着ていた。今朝二寸程背がほころびていたのを私はわざとなおしてやらなかった。
一人よがりの男なんてまっぴらだよ。
私はくしゃみを何度も何度もつゞけると、ぷいと帰りたくなって、詩人の友達二三人と、温い外に出た。
こんなにいゝ夜は、裸になって、ランニングでもしたらさぞ愉快だろう。
四月×日
「僕が電報打ったら、じき帰っておいで。」ふん! 男はまだ嘘を云ってる、私はくやしいけど、十五円の金をもらうと、なつかしい停車場へ急いだ。
潮の香のしみた故里へ帰るんだ、あゝ何もかも何もかも行ってくれ、私に用はない。
男と私は精養軒の白い食卓につくと、日本料理でさゝやかな別宴を張った。
「私は当分あっちで遊ぶつもりよ。」
「僕はこうして別れたって、きっと君が恋いしくなるのはわかっているんだ、只どうにも仕様のない気持なんだよ今は、ほんとうにどうせき止めていゝかわからない程、呆然とした気持なんだよ。」
あゝ夜だ夜だ夜だよ。
何もいらない夜だよ、汽車に乗ったら煙草を吸いましょう。
駅の売店で、青いバットを五ツ六ツ買い込むと、私は汽車の窓から、ほんとに冷い握手をした。
「さよなら、体を大事にしてね。」
「有難う……御機嫌よう……。」
固く目をとじて、パッと瞼を開くと、せき止められていた涙が、あふれ出る。
明石行きの三等車の隅ッ子に、荷物も何もない私は、足をのびのびと投げ出して涙の出るにまかせて、なつかしいバットの銀紙を開いた。
途中で面白そうな土地があったら降りてやろうかな……私は頭の上にぶらさがった地図を、じっと見上げて、駅の名を読んだ。
新らしい土地へ降りてみたいな、静岡にしようか、名古屋にしようか、だが、何だかそれも不安になって来る。
暗い窓に凭れて、じっと暗い人家の灯を見ていると、ふっと私の顔が鏡を見ているようにはっきり写っている。
[#ここから2字下げ]
男とも別れだ
私の胸で子供達が赤い旗を振る
そんなによろこんでくれるか
もう私はどこへも行かず
皆と旗を振って暮らそう。
皆そうして飛び出してくれ
そして石を積んでくれ
そして私を胴上げして
石の城の上に乗せておくれ
さあ男とも別れだ泣かないぞ!
しっかりしっかり旗を振ってくれ
貧乏な女王様のお帰りだ。
[#ここで字下げ終わり]
外は真暗闇、切れては走る窓の風景に、私は目も鼻も口もペッシャリとガラス窓にくっつけて、塩辛い干物のように張りついてしまった。
私はいったい何処へ行くのかしら……駅々の物売りの声を聞くたびに、おびえた心で私は目を開く。
あゝ生きる事がこんなにもむずかしいのなら、いっそ乞食にでもなって、全国を流浪して歩いたら面白いだろう、子供らしい空想にひたって、泣いたり笑ったり、又おどけたりふと窓を見ると、これは又奇妙な私の百面相だ。
あゝこんな面白い生き方があったんだ、私はポンと固いクッションの上に飛び上ると、あく事もなく、なつかしくいじらしい自分の百面相に凝視ってしまった。[#地から2字上げ]――一九二三・四――
[#改ページ]
赤いスリッパ
五月×日
[#ここから2字下げ]
私はお釈迦様に恋をしました
仄かに冷い唇に接吻すれば
おゝもったいない程の
痺れ心になりまする。
ピンからキリまで
もったいなさに
なだらかな血潮が
逆流しまする。
心憎いまで落ちつきはらった
その男振りに
すっかり私の魂はつられてしまいました。
お釈迦様!
あんまりつれないではござりませぬか!
蜂の巣のようにこわれた
私の心臓の中に……
お釈迦様
ナムアミダブツの無情を悟すのが
能でもありますまいに
その男振りで
炎のような私の胸に
飛びこんで下さりませ
俗世に汚れた
この女の首を
死ぬ程抱きしめて下さりませ
ナムアミダブツの
お釈迦様!
[#ここから2字下げ]
妙に佗しい日だ、気の狂いそうな日だ。天気のせいかも知れない、朝から、降りしきってた雨が、夜になると風をまじえて、身も心も、突きさしそうにキリキリ迫って来る。こんな詩を書いて、壁に張りつけてみたものゝ私の心臓はいつものように、私を見くびって、ひどくおとなしい。
――スグコイカネイルカ
蒼ぶくれのした電報用紙が、ヒラヒラ私の頭に浮かんで来る。
馬鹿、馬鹿、馬鹿、馬鹿を千も万も叫びたい程、切ない私だ。高松の宿屋で、あの男の電報を受け取って私は真実、嬉し涙を流して、はち切れそうな土産物を抱いて、この田端の家へ帰えって来た。
半月もたゝないうちに又別居だ。
私は二ヶ月分の間代を払らってもらうと、程のいゝ居座りで、男は金魚のように尾をヒラヒラさせて、本郷の下宿に越して行った。
昨日も、出来上った洗濯物を一ぱい抱えて、私はまるで恋人に会いに行くようにいそいそと、あの下宿の広い梯子を上って行った。
あゝ私はあの時から、飛行船が欲しくなった。
灯のつき初めた、すがすがしい部屋に、私の胸に泣きすがったあの男が、桃割れに結った、あの女優と、魚の様にもつれあっている。水のように青っぽい匂いの流れてくる暗い廊下に、私は瞳にいっぱい涙をためて、初夏らしい、ハーモニカの音を耳にした。
顔いっぱいが、いゝえ体いっぱいが、針金でつくった人形みたいに固くなって切なかったけれど……。
「やあ……。」私は子供のように天真に哄笑して、切ない瞳を、始終机の足に向けていた。
あれから今日へ掛けての私は、もう無茶苦茶な世界への放浪だ。
「十五銭で接吻しておくれよ!」
と、酒場で駄々をこねたのも胸に残っている。
男なんてくだらない!
蹴散らして、蹈たくってやりたい怒に燃えて、ウイスキーも日本酒もちゃんぽん[#「ちゃんぽん」に傍点]に呑み散らした、私の情けない姿が、こうして静かに雨の音を聞きながら、床の中にいると、いじらしく、憂鬱に浮かんで来る。今頃は、風でいっぱいふくらんだ蚊帳の中で、あの女優の首を抱えているであろう……と思うと、飛行船に乗って、バクレツダンを投げてやりたい気持ちだ。
私は宿酔いと、空腹でヒョロヒョロする体を立たせて、ありったけの一升ばかりの米を土釜に入れて、井戸端に出た。
下の人達は皆風呂に出たので、私はきがね[#「きがね」に傍点]もなく、大きい音をたてゝ米をサクサク洗った。雨にドブドブ濡れながら、只一筋にそっとはけて行く白い水の手ざわりを楽しんだ。
六月×日
朝。
ほがらかなお天気だ。雨戸をくると、白い蝶々が、雪のように群れて、男性的な季節の匂いが私を驚かす。
雲があんなに、むくむくもれ上っている。ほんとにいゝ仕事をしなくちゃあ、火鉢にいっぱい散らかった煙草の吸殻を捨てると、屋根裏の一人住いもいゝものだと思えた。朦朧とした気持ちも、この朝の青々とした空気を吸うと、元気になって来る。
だが楽しみの郵便が、七ツ屋の流れを知らせて来たのにはうんざりしてしまった。四円四十銭の利子なんか抹殺してしまえだ!
私は黄色の着物に、黒い帯を締めると、日傘をクルクル廻わして、幸福な娘のように街へ出た。例の通り古本屋への日参だ。
「叔父さん、今日は少し高く買って丁戴ね。少し遠くまで行くんですから……。」
この動坂の古本屋の爺さんは、いつものように人のいゝ笑顔を皺の中に隠して、私の出した本を、そっと両の手でかゝえた。
「一番今流行る本なの、じき売れてよ。」
「へえ……スチルネルの自我論ですか、壱円で戴きます。」
私は二枚の五拾
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