位は離れている。
犀の同人で、若い青年がはいって来た、名前を紹介されたが、秋声氏の声が小さかったので聞きとれなかった。
金の話も結局駄目になって、後で這入て来た順子さんの華やかな笑声に押されて、青年と私と、秋声氏と順子さんと四人は外に出た。
「ね、先生! おしる粉でも食べましょうよ。」
順子さんが夜会巻き風な髪に手をかざして秋声氏の細い肩に凭れて歩いている。私は鎖につながれた犬の感じがしないでもなかったが、非常に腹がすいていたし、甘いものへの私の食慾は、あさましく犬の感じにまでおちてしまった。
誰かに甘えて、私もおしる粉を一緒に食べる人をさがすかな。四人は、燕楽軒の横の坂をおりて、梅園と云う、待合のようなおしる粉屋へはいる。黒い卓子について、つまみのしそ[#「しそ」に傍点]の実を噛むと、あゝ腹いっぱい茶づけが食べてみたいなと思った。
しる粉屋を出ると、青年と別れて、私達三人は、小石川の紅梅亭に行く。賀々寿々の新内と、三好の酔っぱらいに一寸涙ぐましくなって、いゝ気持ちであった。
少しばかりの金があれば、こんなにも楽しい思いが出来る。まさか紳士と淑女に連れそって来た私が、お茶づけを腹いっぱい食いたい事にお伽話のような空想を抱いていると誰が思うだろうか!
順子さんは、よせ[#「よせ」に傍点]も退屈したと云う、三人は雨のそぼ降る肴町の裏通りを歩いた。
「ね、先生! 私こんどの××の小説の題なんてつけましょう、考えてみて頂戴な、流れるまゝには少しチンプだったから……。」
順子さんの薄い扇が、コウモリのように見えた。
団子坂のエビスで紅茶を呑むと、順子さんは、寒いから、何か寄せ鍋でもつゝきたいと云う。
「どこが美味《うま》いか知ってらっしゃる?」
秋声氏は子供のように目をしばしばさせて、「そうね……。」私はお二人に別れようと思った。
二人に別れて、小糠雨を十ちゃんの羽織に浴びながら、団子坂の文房具屋で、原稿用紙を一帖買ってかえる。――八銭也――
ワァッ! と体中の汚れた息を吐き出しながら、まるで尾を振る犬みたいな女だと私は私を大声あげて嘲笑ってやった。
帰えったら、部屋の火鉢に、パチパチ切り炭が弾けていて、カレーの匂いがぐつぐつ泡をふいていた。
見知らない赤いメリンスの風呂敷が部屋の隅に転がって、新らしい蛇の目の傘がしっとり濡れたまゝ縁側に立てかけてあった。
隣室では又今夜も秋刀魚か、十ちゃんの羽織を壁にかけているとクツクツ十ちゃんが笑いながら梯子段を上って来る。
「お芳ちゃんがたずねて来てね、二人で風呂へ行ったの。」皆カフェーの友達、此女は英百合子[#「英百合子」に傍点]に似ていて、肌の美しい女だった。
「十ちゃんも出てしまうし、面白くないから出て来ちゃったわ、二日程泊めて下さいね。」まるで綿でも詰ってるかの様に大きい髷《まげ》なしをセルロイドの櫛でときつけながら、
「女ばかりもいゝものね……時ちゃん此間あってよ。どうも思わしくないから、又カフェーへ逆もどりしようかって云ってたわ。」
お芳さんが米も、煮えているカレーも炭も買ってくれたんだと云って十子がかいがいしく茶ブ台に茶碗をそろえていた。
久し振りに明るい気持ちになる。
敷蒲団がせまいので、昼夜帯をそばに敷て、私が真中、三人並んで寝る事にした。何処か三畳の部屋いっぱいが女の息ではち切れそうな思いだった。
高いところからおっこちるような夢ばかり見る。
三月×日
新聞社に原稿あずけて帰えって来ると、ハガキが一枚来ていた。
今夜来ると云う、あの男からの速達だ。
十ちゃんも芳ちゃんも仕事を見つけに行ったのか、部屋の中は火が消えたように淋しかった。
あんな男に金を借してくれなんて言えたもんではないじゃないか。十ちゃんに相談してみようかしら……。
妙に胸がさわがしくなる。
あのヴァニティケースだって、ほてい[#「ほてい」に傍点]屋の開業日だって云うので、物好きに買って来た何割引きかのものなのなんだ。そうして、偶然に私の番だったので、くれたようなものゝ、別にあっち[#「あっち」に傍点]からも、こっち[#「こっち」に傍点]からも路傍の人以外に、何でもありはしない。
あんなハガキ一本で来ると云う速達、それにあっちの人はもうかなりな年だし、私は歯がズキズキする程胸さわがしくなってしまった。
夜――。霰まじりの雪が降りだした。
女達はまだ帰えって来ない。
雪を浴びた林檎の果実籠をさげて、ヴァニティケースをくれた男来る。神様よ笑わないで下さい。私の本能なんてこんなに汚れたものではないのです。私は沈黙って両手を火鉢にかざしていた。
「いゝ部屋にいるんだね。」
此男は、まるで妾の家へでもやって来たかの如く、オーヴァをぬぐと、近々と顔をさしよせて、
「そんなに困っているの……。」と云う。
「拾円位ならいつでも借してあげるよ。」
暗いガラス戸をかすめて雪がちらしのように通って行く。
私の両手を、男は自分の大きい両手でパンのようにはさむと、アイマイな言葉で「ね!」と云った。私はたまらなく憎しみを感じると、涙を振りほどきながら、男に云った。
「私は淫売婦じゃないんですよ。食えないから、お金だけが借してほしかったのです。」
隣室で、妻君のクスクス笑う声が聞こえる。
「誰です笑っているのは! 笑らいたければ私の前で笑って下さい! 蔭でなぞ笑うのは止して下さい!」
男の出て行った後、私は二階から果物籠を地球のようにほうり投げてやった。
[#改ページ]
女アパッシュ
二月×日
あゝ何もかも犬に食われてしまえ!
寝転ろんで鏡を見ていると、歪んだ顔が少女《むすめ》のように見えて、体中が妙に熱《ねつ》っぽくなって来る。
こんなに髪をくしゃくしゃにして、ガランスのかった古い花模様の蒲団の中から乗り出していると、私の胸が夏の海のように泡立って来る。汗っぽい顔を、畳にべったり押しつけてみたり、むき出しの足を鏡に写して見たり、私は打ちつけるような激しい情熱を感じると、蒲団を蹴って窓を開けた。
[#ここから2字下げ]
――思いまわせばみな切な、貧しきもの、世に疎きもの、哀れなるもの、ひもじきもの、乏しく、寒く、物足らぬ、果敢なく、味気なく、よりどころなく、頼みなきもの、捉えがたくあらわしがたく、口にしがたく、忘れ易く、常なく、かよわなるもの、詮ずれば仏ならねど此世は寂し。
[#ここで字下げ終わり]
チョコレート色のアトリエの煙を見ていると、白秋のこんな詩をふっと口ずさみたくなってくる、真《まこと》に頼みがいなき人の世かな。
三階の窓から見降ろしていると、モデル女の裸がカーテンの隙間から見える。青ペンキのはげた校舎裏の土俵の日溜《ひだま》りでは、ルパシカの紐の長い画学生達が、之は又|野方図《のほうず》もなく長閑なすもう[#「すもう」に傍点]の遊び。
上から口笛をプイプイ吹いてやると、カッパ頭が皆三階を見上げる。さあその土俵の上に此三階の女は飛び降りて行きますよッて吐鳴ったら、皆喜こんで拍手してくれるだろう――。
川端画塾横の石屋のアパートに越して来てもう十日あまり、寒空に毎日チョコレート色のストオヴの煙を眺めて、私は二十通あまりも履歴書を書いた。
原籍を鹿児島県、東桜島、古里、温泉場だなんて書くと、あんまり遠いので誰も信用してくれないんです、だから東京に原籍を書きなおすと、非常に肩が軽るくて、説明も入らない。
「オーイ」
障子にバラバラ砂ッ風が当ると、下の土俵場から、画学生達はキャラメルをつぶて[#「つぶて」に傍点]のように投げてくれる。そのキャラメルの美味《うま》かったこと……。
隣りの女学生かえって来る。
「うまくやってるわ!」
私のドアを乱暴に蹴って、道具をそこへほうり出すと、私の肩に手をかけて、
「ちょいと画描きさん、もっとほおって[#「ほおって」に傍点]よ。も一人ふえたんだから……。」
「…………。」
下から、遊びに行ってもいゝか? って云うサインを画学生達が投げると、此十七の女学生は指を二本出してみせた。
「その指何の事よ。」
「これ! 何でもないわ、いらっしゃいって言う意味にも取っていゝし、駄目駄目って事だっていゝわ……。」
此女学生は不良パパと二人きりで此アパートに間借りしていて、パパが帰えって来ないと私の蒲団にもぐり込みに来る可愛らしい少女だった。
「私の父さん? さくらあらいこ[#「さくらあらいこ」に傍点]の社長よ。」
だから私は石鹸よりも、このあらいこをもらう事が多い。
「ね、つまらないわね。私月謝がはらえないので、学校止してしまいたいのよ。」
火鉢がないので、七輪に折り屑を燃やして炭をおこす。
「階下《した》の七号に越して来た女ね、時計屋さんの妾だって、お上さんがとてもチヤホヤしていて憎らしいたら……。」
彼女の呼名はいくつもあるので判らないんだが、自分ではベニがねと云っていた。ベニのパパはハワイ[#「ハワイ」に傍点]に長い事行っていたとかで、ビール箱でこしらえた大きいベッドにベニと寝ていた。
何をやっているのか見当もつかないのだが、桜あらいこ[#「桜あらいこ」に傍点]の空袋が沢山持ちこまれる事がある。
「私んとこのパパあんなにいつもニコニコ笑ってるけど、とても淋しいのよ、あんたお嫁さんになってくんない。」
「馬鹿ね! ベニさんは、私はあんなお爺さん大嫌いよ。」
「だってうちのパパ一人でおくのはもったいないって、若い女が一人でゴロゴロしている事は、とてもそんだ[#「そんだ」に傍点]ってさア。」
三階建の此ガクガクのアパートが、火事にでもならないかしら。
寝転ろんで新聞を見る。
きまって目の行くところは、芸者と求妻と、貸金と女中の欄だ。
「お姉さん! こんど常盤座へ行かない、三館共通で、朝から見られるわ、私歌劇女優になりたくて仕様がないのよ。」
ベニは壁に手の甲をぶっつけながら、リゴレットを鼻の先きで唄っていた。
夜
松田さん遊びに来る。
私は此人に拾円あまりも借りがあって、それを払えないのがとても苦しい。あのミシン屋の二階を引き払って、こんな貧乏アパートに越して来たのも一つは松田さんの親切から逃げたい為だった。
「貴女にバナヽを食べさせようと思って持って来たのです。食べませんか。」
此人の言う事は、一ツ一ツ何か思わせぶりな言いかたになる。
本当はいゝ人なんだがけち[#「けち」に傍点]でしつこく[#「しつこく」に傍点]て、小さい事が一番嫌いだった。
「私は自分が小さいから、結婚するんだったら、大きい人と結婚するわ。」
いつもこう言ってあるのに、此人は毎日のように遊びに来る。
さよなら! そう云って帰えって行くと、非常にすまない気持ちで、こんど[#「こんど」に傍点]会ったら優しい言葉をかけてあげようと思っても、こうして会うと、シャツの目立って白いのなんかとてもしゃく[#「しゃく」に傍点]だった。
「いつまでもお金かえせないで、本当にすまなく思っています。」
松田さんは酒にでも酔っているのか、わざとらしくつっぷしてゴブゴブ涙の息をしていた。
さくらあらいこ[#「さくらあらいこ」に傍点]の所へ行くの厭だけど、自分の好かない場違いの人の涙を見ている事が辛らくなったので、そっとドアのそばへ行く。
あゝ拾円と云う金が、こんなにも重苦しい涙を見なければならないのかしら、その拾円がみんな、ミシン屋の叔母さんのふところへ、はいって私には素通して行っただけの拾円だった。
セルロイド工場の事。
自殺したお千代さんの事。
ミシン屋の二畳でむかえた貧しい正月の事。
あゝみんなすぎてしまったのに、小さな男の涙姿を見ていると、同じような夢を見ている錯覚がおこる。
「今日は、どんなにしても話したい気持ちで来たんです。」
松田さんのふところには、剃刀のようなものがキラキラ見えた。
「誰が悪るいんです! 変なまねは止めて下さい。」
こんなところで、こんな好きでもない男に殺ろ
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