される事はたまらないと思った。私は私を捨てゝ行った島の男の事が、急に思い出されると、こんなアパートの片隅で、私一人辛い思いをしている事が切なかった。
「何もしません。これは自分に言いきかせるものなのです。死んでもいゝつもりで話しに来たのです。」
あゝ私はいつも、松田さんの優さしい言葉には参ってしまう。
「どうにもならないんじゃありませんか、別れても、いつ帰えってくるかも知れないひと[#「ひと」に傍点]があるんです。それに私はとても変質者だから駄目ですの、お金も借りっぱなしでとても苦しく思っていますが、四五日すれば何とかしますから……。」
松田さんは立ちあがると、狂人のようにあわたゞしく梯子を降りて行ってしまった。
夜更け。
島の男の古い手紙を出して読む。
皆、之が嘘だったのかしら、アパートの頭のもげそうな風が吹く。
栓ずれば仏ならねどみな寂しか……。
三月×日
菜の花の金色が、硝子窓から、広い田舎の野原を思い出させてくれた。その花屋の横を折れると、××産園とペンキの看板がかゝっていた。何度も思いあきらめて、結局産婆にでもなってしまおうと思って。たずねて来た千駄木町の××産園。
歪んだ格子を開けると、玄関の三畳に三人許りも女が、炬燵にゴロゴロして居た。
「何なの……。」
「新聞を見て来たんですけど……助手見習生入用ってありましたでしょう。」
「こんなにせまいのに、あいつ[#「あいつ」に傍点]まだ助手を置くつもりかしら……。」
二階の物干には、枯れたおしめ[#「おしめ」に傍点]が半開きの雨戸にバッタンバッタン当って居た。
「こゝは女ばかりですから、遠慮はないんですのよ、私が方々へ出ますから、事務を取って戴けばいゝんです。」
このみすぼらしい××産園の主人にしては美しすぎる女が、私に熱い紅茶をすゝめてくれた。下の女達が、あいつと言ったのが此女なのだろうか、高価な香水の匂いがクンクンして、二階の此四畳半だけは、ぜいたくな道具がそろっていた。
「実はね、下にいる女達、皆素性が悪るくて、子供でも産《う》んでしまえばそれっきり逃げ出しそうなやつ[#「やつ」に傍点]ばかりなんですよ。だから今日からでも私の留守居して貰いたいんですが、御都合いかゞ?」
あぶら[#「あぶら」に傍点]のむちむちした白い柔い手を頬に当てゝ私を見ている此女の瞳には、何かキラキラした冷たさがあった。話はいかにも親しそうにしていて、瞳は遠くの方を見ている。
そのはるかな[#「はるかな」に傍点]ものを見ている彼女の瞳には空もなければ山も海も、まして人生の旅愁なんて、支那人形の瞳のような、冷々と底知れない野心が光っていた。
「えゝ今日からお手助してもようございますわ。」
昼
黒いボアに頬を埋めて女主人出て行く。
少女が台所で玉葱をジタジタ油でいためている。
「一寸! 厭になっちゃうね、又玉葱にしょっぺ汁かい?」
「だって、これしか当がって行かねえんだもの……。」
「へん! まるで犬ころとまちがえてやがるよ。」
ジロジロ睨みあっている瞳を冷笑にかえると、彼女達は煙草をくゆらしながら、
「助手さん! 寒いから汚ないでしょうけど、こゝへ来て当りませんか!」
何か底知れない気うつさを感じながら、襖をあけると、雑然として前の玄関に、女が六人位もさしあって居た。
こんなにどこから来たのかしら――
「助手さん! 貴方お国どこ?」
「東京ですの。」
「テヘッ! そうでございますの、一寸これゃごまめだよ。」
女達は、ワッハワッハ笑いながら、何か話しあっていた。
昼の膳の上。
玉葱のいためたのに醤油をかけたの、京菜の漬物、薄い味噌汁。
八人の女が、猿のように小さな卓子を囲んで箸を動かせる。
「子供××××××と言って、あいつ一日延ばしに私から金を取る事ばかり考えているよ、そして栄養食ヴィタミンBが必要ですか、奴淫売《ドインバイ》のくせに!」
女給が三人
田舎芸者が一人
女中が一人
未亡人が一人
女達が去ったあと、少女が六人の女の説明をしてくれた。
「うちの先生は、産婆が本業じゃないのよ、あの女の人達前からうち[#「うち」に傍点]の先生のアレの世話になってんですの、世話だけでも大したものでしょう。」
奴淫売《ドインバイ》! と云い散らした女の言葉が判ると、自分が一直線に落ち込んだような気がして急に、フッと松田さんの顔が心に浮んだ。
不運な職業にばかりあさりつく私、もう何も言わないで、あの人と一緒になろうかしら――。
何でもない風《ふう》をよそおって、玄関へ出る。
「荷物を持って、もう帰るの……。」
××の写真を、まるで散しのように枕元に散乱させて居た女が、フッと起きあがって、それに座蒲団をかぶせると、
「ちょいと、先生がかえるまで帰えっちや駄目だわ……私達が叱られるもの、それにどんなもん持って行かれるか判らないし。」
何と云う救いがたなき女達だろう、何がおかしいのか、皆目尻に冷嘲を含んで私が消えたら、一どきに哄笑しそうな様子だった。
いつの間に誰か来たのか、玄関の横の庭には、赤い男の靴が一足ぬいであった。
「見て御らんなさいな、本が一冊と雑記帳ですよ、何も取りゃしませんよ。」
「帰えっちゃ、やかましいよ。」女中風な女が、一番不快だった。
腹が大きくなると、こんなにもひねくれ[#「ひねくれ」に傍点]て動物的になるものか、彼女等の瞳はまるで猿だ。
「困るのは勝手ですよ。」外の暮色に押されて花屋の菜の花の前に来ると、始めて私は大きい息をついた。
あゝ菜の花の古里。
あの女達も、此菜の花の郷愁を知らないのかしら……だが、何年か、見きわめもつかない生活を東京で続けたら、私自身の姿があんな風になるかも知れない。
街の菜の花!
清純な気持ちで、生きたいものだ。何とかどうにか、目標を定めたいものだ。今見て来た女達の、実もフタもないザラザラした人情を感じると、私を捨てゝ去った島の男が呪ろわしくさえ思えて、寒い三月の灯の街に、呆然と私はたちすくむ。
玉葱としょっぺ汁。
共同たんつぼ[#「たんつぼ」に傍点]のような悪臭、いったいあの女達は誰を呪っているのかしら――。
三月×日
朝、島の男より為替来る。母さんのハガキ一通。
当にならない僕なんか当にしないで、いゝ縁があったら結婚して下さい、僕の生活は当分、親のすねかじり、自分で自分がわからない、君の事を思うとたまらなくなるが、二人の間は一生ゼツボウ状態だろう――。
男の親達が、他国者の娘なんか許るさないと云ったのを思い出すと私は子供のように泣けて来た。
さあ、此拾円を松田さんに返えそう、そしてせいせいしてしまいたい。
せいいっぱい声をはりあげて、小学生のような気持ちで本が読みたい。
ハト、マメ、コマ、タノシミニマッテヰナサイか!
郵便局から帰えって来ると、お隣のベニの部屋に、刑事が二人も来ていた。
窓をあけると、三月の陽を浴びて、画学生たちが、すもうを取ったり、壁に凭れたり、あんなにウラウラと暮らせたらゆかいだろう。
私も絵は好きなんですよ、ホラ! ゴオギャンだの、ディフィだの好きです。
「アパートに空間ありませんか!」
新鮮な朗らかな笑い声がはじけると、一せいに彼達の瞳が私を見上げる。
その瞳には、空や山や海や――。
私はベニの真似をして二本の指を出して見せた。
焦心、生きるは五十年
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――改造社から続放浪記[#「続放浪記」に傍点]が出ます。よろしく、御愛読を乞う、筆者――
[#ここで字下げ終わり]
底本:「作家の自伝17 林芙美子」日本図書センター
1994(平成6)年10月25日初版第1刷発行
底本の親本:「女人藝術」
1928(昭和3)年10月号〜1930(昭和5)年10月号
初出:「女人藝術」
1928(昭和3)年10月号〜1930(昭和5)年10月号
※底本編集部が「〔 〕」を用いて付した注記と追加のルビは、入力しませんでした。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※「憂欝」と「憂鬱」、「茣蓙」と「茣座」の混在は底本通りです。
入力:kompass
校正:伊藤時也
2007年4月11日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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