並のを二丁くんな。」
 鏡にすかして、雨が針のようにふっている。私は九州の長崎の思い出に、唐津物を売っていた頃、よく父が巡査になぐられたのを思い出した。

 ――こゝに吾等は芸術の二ツの道、二ツの理解を見出す。人間がいかなる道によって進むか、夢想! 美の小さなオアシスの探求の道によってか、それとも能動的な創造の道によってかは、勿論、一部分理想の高さに関係する。理想が低ければ低いほど、それだけ人間は実際的であり、この理想と現実との間の深淵が彼にはより少なく絶望的に思われる。けれども主として、それは人間の力の分量に、エネルギイの蓄積に、彼の有機体が処理しつゝある営養の緊張力に関係する。
 緊張せる生活はその自然的な補いとして創造、争闘の緊張、翹望を持つ――。女達が風呂に出はらった後の夕暮れの女給部屋で、ルナチャルスキイの、実証美学の基礎を読んでいると、こんな事が書いてあった。
 科学的に処理してある言葉を見ると、どうにも動きのとれない今の生活と、感情のルンペンさが、まざまざと這い出て私は暗くなる。勉強したいと思う、あとからあとから、とてつもなくだらしのない不道徳な野性が、私の体中を馳りまわる。
 見極めのつかない生活、死ぬか生きるかの二ツの真蒼な道……。

 夜になれば、白人国に買われたニグロのような淋しさで、埒もない唄をうたう。

 メリンスの着物は、汗で裾にまきつくと、すぐピリッと破けてしまう。実もフタもない此あつさでは、涼しくなるまで、何もかもおあずけで、カツ一丁上ったよッ! か――。
 何の条件もなく、一ヶ月卅円もくれる人があったら、私は満々としたいゝ詩をかいてみたい、いゝ小説を書いてみたい。
 バカヤロ、バカヤロ、お芙美さん!
[#改ページ]

   海の祭

 七月×日
 ちっとも気がつかない内に、かっけ[#「かっけ」に傍点]になってしまって、それに胃腸も根こそぎ痛めてしまったので、食事も此二日ばかり思うようになく、魚のように体が延びてしまった。
 薬も買えないし少し悲惨な気がする。

 店では夏枯れなので、景気づけに、赤や黄や紫の風船玉をそえて、客を呼ぶのだそうな――。じっと売り場に腰を掛けていると、眠りが足らないのか、道の照りかえしがギラギラ目を射て頭が重い。
 レースだの、ボイルのハンカチだの、仏蘭西製カーテンだの、ワイシャツ、カラー、店中はしゃぼん[#「しゃぼん」に傍点]の泡のように白いものずくめ、薄いものずくめだ。
 閑散な、お上品なこんな貿易店で、日給八拾銭の私は売り子の人形、だが人形にしては汚なすぎるし、腹が減りすぎる。
「あんたのように、そう本ばかり読んでも困る、お客様が見えたら、おあいそ位云って下さい。」
 酔っぱいものを食べた後のように歯がじん[#「じん」に傍点]と浮いた。
 本を読んでいるんじゃないんです。こんな婦人雑誌なんか、私の髪の毛でもありはしない、硝子のピカピカ光っている面を一寸覗いて御覧下さい。水色の事務服と浴衣が、バックと役者がピッタリしないように、何とまあおどけた厭な姿……。
 顔は女給風で、それも海近い田舎から出て来たあぶら[#「あぶら」に傍点]のギラギラ浮いた顔、姿が女中風で、それも山国から来たコロコロした姿、そんな野性な一本の木が、胸にレースを波たゝせた水色の事務服を着ているのです。
 ドミエの漫画! 何とコッケイな、何とちぐはぐな鶏《にわとり》の姿!
 マダム・レースや、ミスター・ワイシャツや、マドモアゼル・ハンカチの衆愚に、こんな姿をさらすのが厭なのです。
 それに、サーヴィスが下手だとおっしゃる貴方の目が、いつ私をくびきる[#「くびきる」に傍点]かも判らないし、なるべく、私と云う売り子に関心を持たれないように、私は下ばかりむいているのです。
 あまりに長いニンタイ[#「ニンタイ」に傍点]は、あまりに大きい疲れを植えて、私はめだたない人間にめだたない人間に訓練されて来たのです。
 あの男は、お前こそめだつ人間になって闘争しなくちゃ嘘だと云うのです。
 あの女は、貴女はいつまでもルンペンでいけないと云うのです。
 そして、勇カンに戦かっているべき、彼も彼女も……。
 彼いっこ[#「いっこ」に傍点]の白き手のインテリゲンチャ!
 彼女いっこ[#「いっこ」に傍点]のブルジョワ夫人!
 仲間同志で嫉妬に燃えています。
 彼や彼女達が、プロレタリヤを食い物にして、強権者になる日の事を考えると、宇宙はどこが果てなんだろうと考えるし、人生の旅愁を感じる。
 歴史は常に新らしく生きる――。そこで磨れ[#「磨れ」に傍点]ば燃えるマッチがうらやましくなった。

 夜――九時。
 省線を降りると、道が暗いので、ハーモニカを吹き吹き帰える。
 詩よりも小説よりも、こんな単純な音だけど音楽はいゝナ。

 七月×日
 青山の貿易店も高架線のかなた。二週間の労働賃金拾壱円也、東京での生活線なんてよく切れたがるものだなア。
 隣りのシンガーミシンの生徒? さんが、歯をきざむように、ギイギイ……しっきりなしにミシンのペタルを押している。
 毎日の生活断片をよく寝言にうったえる[#「うったえる」に傍点]秋田の娘さん。
 古里から拾五円ずつ送金してもらって、あとはミシンでどうやら稼いでいる、縁遠そうな娘さん、いゝ人だ。
 彼に紹介状もらって、××女性新聞社に行く。本郷の追分で降りて、ブリキの塀をくねくね曲ると、緑のペンキの脱落《はげ》た、おそろしく頭でっかち[#「でっかち」に傍点]な三階建の下宿屋の軒に、蛍程な社名が出ていた。

 まるで心天《ところてん》を流すよりも安々と女記者になりすました私は、汚れた緑のペンキも最早何でもなく思った。
 昼。
 下宿の中食をもらって舌つゞみ打つと、女記者になって二三時間もたゝない私は、鉛筆と原稿紙をもらって談話取りだ。
 四畳半に厖大な事務机が一ツ、薄色の眼鏡をかけた社長と、××女性新聞発行人の社員が一人、私を入れて三人の××女性新聞。チャチなものだ。又、生活線が切れるんじゃないかと思ったが、兎に角私は街に出た。

 訪問先きは秋田雨雀氏のところ――。
 此頃の御感想は……私は此言葉を胸にくりかえしながら、雑司ヶ谷の墓地を抜けて、鬼子母神のそばで番地をさがす。

 本郷の混々《ごみごみ》した所から此辺に来ると、何故か落ちついた気がする。二三年前の五月頃、漱石の墓にお参りした事もあったが……。
 秋田氏は風邪を引いていると云って鼻をかみかみ出ていらっした。
 まるで少年のようにキラキラした瞳、非常にエキゾチックな感じの人だ。お嬢さんは千代子さんとか云って、初めて行った私を拾年のお友達かのように話して下すった。
 厚いアルバムが出ると、一枚一枚繰って説明をして下さる。此役者は誰、此女優は誰、その中には別れた男のプロフィルもあった。
「女優ってどんなのが好きですか、日本では……。」
「私判らないけど、夏川静江なんか好きだわ。」
 私はいまだかつて、私をこんなに優さしく遇してくれた女の人を知らない。
 二階の秋田さんの部屋には黒い牛の置物があった。高村さんの作で、有島さんが持っていらっしたとか、部屋は実に雑然と、古本屋の観があった。
 談話取りが、談話がとれなくて、油汗を流していると、秋田さんは二三枚すらすらと手を入れて下すった。
 お寿司を戴く。来客数人あり。
 暮れたのでおくって戴く。
 赤い月が墓地に出ていた。灯の湧いた街ではシュッシュッ氷を削る音がする。
「僕は散歩が好きです。」
 秋田氏は楽し気にコツコツ靴を鳴らしている。
「あそこがすゞらん[#「すゞらん」に傍点]!」
 舞台の様なカフェー、変ったマダムだって誰かに聞いた。
 秋田氏は銀座へ。
 私は何か書きたい興奮で、沈黙って江戸川の方へ歩いて行った。

 七月×日
 階下の旦那さんが二日程国へ行って来ますと云って、二階へ後の事を頼みに今朝上って来たのに、社から帰えってみると、隣のミシンの娘さんが、帯をときかけている私を襖の裂けめから招いた。
「あのね一寸!」
 向うから底声なので、私もそっといざり[#「いざり」に傍点]よると、
「随分ひどいのよ、下の奥さん外の男と酒呑んでるのよ……。」
「いゝじぁないの、お客さんかも知れないじゃないんですか。」
「だって、十八やそこいらの女が、あんなにデレデレして夫以外の男と酒呑めるか知ら……。」

 帯を巻いて、ガーゼの浴衣をたゝんで、下へ顔洗いに行くと、腰障子の向うに、十八の花嫁さんは、平和そうに男と手をつなぎあって転がっていた。
 昔の恋人かも知れない。
 只うらやましい[#「うらやましい」に傍点]丈で、ミシンの娘さんのような興味はない。
 夜。
 御飯を焚くのがめんどうだったので、町の八百屋で一山拾銭のバナヽを買って来る。
 女一人は気楽だなアー。
 糊の抜けた三畳の木綿の蚊帳の中に、伸び伸びと手足を投げ出してヤーマ[#「ヤーマ」に傍点]を読む。
 したゝか者の淫売婦が、自分の好きな男の大学生に、非常な清純な気持ちを見せる、厖大な本だ、頭がつかれる。

「一寸起きてますか?」
 もう拾時頃だろうか、隣のシンガーミシンさんが帰えって来たらしい。
「えゝまだねむれないでいます。」
「一寸! 大変よ!」
「どうしたんです。」
「呑気ねッ、下じゃあの男と一緒に蚊帳の中へはいって眠ってゝよ。」
 シンガーミシン嬢は、まるで自分の恋人でも取られたように、瞳をギロギロさせて、私の蚊帳にはいって来た。
 いつもミシンの唄に明け暮れする彼女が、私の部屋になんか、めったにはいっ[#「はいっ」に傍点]て来ない行儀のいゝ彼女が、断りもしないで私の蚊帳へもぐり込むと、大きい息をついて、畳に耳をつけた。
「随分人をなめて[#「なめて」に傍点]いるわね、旦那さんかえって来たら皆云ってやるから、私よか十も下なくせに、ませ[#「ませ」に傍点]ているわね……。」
 ガードを省線が、滝のような音をたてゝ通る。

 一度も縁づいた事のない彼女が、嫉妬《ねたみ》がましい息づかいで、まるで夢遊病者のような狂体を演じようとしている。
「兄さんかも知れなくってよ。」
「兄さんだって、一ツ蚊帳には寝ないや。」
 何か淋しい血のようなものが胸に込み上げて来た。
「瞳が痛いから電気消しますよ。」
 彼女はフンゼンとして沈黙って出て行くと、やがて梯子段をトントン降りて行った。
「私達は貴方を主人にたのまれたのですよ。こんな事知れていゝのですか!」
 切れ切れに、こんな言葉が耳にはいる。
 一度も結婚しないと云う事は、あんなににも強く云えるものか……私は蒲団を顔へずり上げて固く瞼をとじた。

 七月×日
 ――ビヤウキスグカヘレタノム
 母よりの電報。
 本当かも知れないが、嘘かも知れない。だが嘘の云えるような母ではない。出社前なので、急いで旅仕度をすると、旅費を借りに社へ行く。

 社長に電報みせて、五円の前借りを申し込むと、前借は絶体に駄目だと云う。だが私の働いた金は取ろうと思えば拾五円位ある筈だ。不安になって来る。廊下に置いたバスケットが妙に厭になった、大事な時間を、借りる! と云う事で、それも正当な権利を主張しているのに、駄目だと云う。
 これは、こんなところでみきわめ[#「みきわめ」に傍点]をつけた方がいゝかも知れない。
「じゃ借りません! 其代り止めますから今迄の報酬を戴きます。」
「自分で勝手に止されるのですから、社の方では、知りませんよ。満足に務めて下すっての報酬であって、まだ十二三日しかならないじゃありませんか!」

 黄にやけたバスケットをさげて、私は又、二階裏へかえった。
 ミシン嬢は、あれから、下の妻君と気持が凍って、引っ越しするつもりでいたらしかったが、帰えって見ると、どこかみつかったらしく、荷物を運び出していた。
 彼女の唯一の財産である、ミシンだけが、不格恰な姿で、荷車の上に乗っかっていた。
 全てはあゝ[#「あゝ」に傍点]空しである――。

 七月×日
 駅には、山や海の旅行者が、白
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