いを感じると、私は涙が霧のようにあふれて来た。
今まで、こんなに優さしい言葉を掛けて私を慰さめてくれた男があっただろうか、皆々私を働かせて煙のように捨てゝしまったではないか。
此人と一緒になって、小さな長屋にでも住って、世帯を持とうか、でもあんまり淋しすぎる。十分も顔を合わせていたら、胸がムカムカして来る此小さな男。
「済みませんが、私体具合が悪るいんです、ものを言うのが、おっくう[#「おっくう」に傍点]ですの、あっちい行ってゝ下さい。」
「当分工場を休んで下さい。その間の事は僕がします。たとえあたな[#「あたな」はママ]が僕と一緒になってくれなくっても、僕はいゝ気持ちなんです。」
まあ何てチグハグな世の中であろう――。
夜。
米を一升買いに出る。
序手に風呂敷をさげたまゝ逢初橋の夜店を歩く。
剪花屋、ロシヤパン、ドラ焼屋、魚の干物屋、野菜屋、古本屋、久々で見る楽しい路上風景だ。
十二月×日
へエ! 街はクリスマスでござんすとよ。
救世軍の慈善鍋も飾り窓の七面鳥も、ブルジョワ新聞も、一勢に街に氾濫して、ビラも広告旗も血まなこになってしまう。
暮れだ、急行列車だ。
あの窓の風があんなに動いている。能率を上げなくてはと、汚れた壁のボールドには、二十人の女工の色塗りの仕上げ高が、毎日毎日数字になって、まるで天気予報みたいに、私達をおびやかすようになった。
規定の三百五十の仕上げが不足の時は、五銭引き、拾銭引きと、日給袋にぴらぴらケープのような伝票が張られて来る。
「厭んなっちゃうね……。」
女工はまるで、サヽラのように腰を浮かせて、御製作だ。
同じ絵描きでも、これは又あまりにコッケイな、ドミエの漫画ではないか。
「まるで人間を芥だと思ってやがる。」
五時の時計が鳴っても、仕事はドンドン運ばれて来るし、日給袋は中々廻りそうもない。
工場主の小さな子供達を連れて、会計の妻君が、四時頃自動車で出掛けて行ったのを、一番小さいお光ちゃんが、便所の窓から見ていて、女工達に報告すると、芝居だって云ったり、活動だって云ったり。正月の着物でも買いに行ったのだろうと言ったり、手を働らかせながら、女工達の間にはまちまちの論議が噴出した。
七時半。
朝から晩まで働いて、六拾銭の労働の代償、土釜を七輪に掛けて、机の上に茶碗と箸を並べると、つくづく人生とはこんなものかと思った。
ごたごた文句を言っている奴等の横ッ面をひっぱたいてやりたい。
御飯の煮える間に、お母さんへの手紙の中に長い事して貯めた桃色の五拾銭札五枚入れて封をする。
残金十六銭也。
たった今、何と何がなかったら楽しいだろうと空想して来ると、五円の間代が馬鹿らしくなった。二畳で五円である。
一日働いて米が二升きれて平均六拾銭、又前のようにカフェーに逆もどりしようか、あまたゝび、水をくゞっ[#「くゞっ」に傍点]て、私と一緒に疲れきった壁の銘仙の着物を見ていると、味気なくなる。
ハイハイ私は、お芙美さんは、ルンペンプロレタリヤで御座候だ。何もない。
何も御座無く候だ。
あぶないぞ! あぶないぞ! あぶない無精者故、バクレツダンを持たしたら、喜んで持たせた奴等にぶち投げるだろう。
こんな女が、一人うじうじ生きているより早くパンパンと、××を真二ツにしてしまおうか。
熱い飯の上に、昨夜の秋刀魚を伏兵線にして、ムシャリ頬ばると生きている事もまんざらではない。
沢庵を買った古新聞に、北海道にはまだ何万町歩と云う荒地があると書いてある。あゝそう云う未開の地にプロレタリヤの、ユウトウピヤが出来たら愉快だろうな。
鳩ぽっぽ鳩ぽっぽ[#「鳩ぽっぽ鳩ぽっぽ」に傍点]と云う唄が出来るかも知れないな。
皆で仲よく飛んでこい[#「皆で仲よく飛んでこい」に傍点]って云う唄が流行るかも知れないな。
湯から帰えりしな、暗い路地で松田さんに会う、私は沈黙って通り抜けた。
十二月×日
「何も変な風に義理立てしないで、松田さんが、折角借して上げると云うのに、お芙美さんも借りたらいゝじゃないの、実さい私の家は、あんた達の間代を当にしているんですから。」
髪の薄い叔母さんの顔を見ていると、おん出てしまいたい程、くやしくなる。
これが出掛けの戦争だ。急いで根津の通りへ出ると、松田さんが、酒屋のポストの傍で、ハガキを入れながら私を待っていた。
ニコニコして本当に好人物なのに、私はムカムカしてしまう。
「何も云わないで借りて下さい。僕はあげてもいゝんですが、貴女がこだわると困るから……。」
塵紙にこまかく包んだ金を私の帯の間にはさもうとした、私は肩上げのとってない昔の羽織を気にしながら、妙にてれくさくなってふりほどいて電車に乗ってしまった。
どこへ行く当てもない。
正反対の電車に乗ってしまった私は、白々とした上野にしょんぼり自分の影をふんで降りた。
どうしよう。
狂人じみた口入れ屋の高い広告灯が、難破船の信号みたように、ハタハタしていた。
「お望みは……。」
牛太郎のような番頭に、まず私はかたず[#「かたず」に傍点]を呑んで、商品のような求人のビラを見上げた。
「辛い事をやるのも一生、楽な事をやるのも一生、姉さん良く考えた方がいゝですよ。」
肩掛もしていない。此みすぼらしい女に、番頭は目を細めて値ぶみを始めたのか、ジロジロ私の上下に目を流している。
下谷の寿司屋の女中さんに紹介をたのむと、壱円の手数料を五拾銭にまけてもらって、公園に行く。
今にも雪の降って来そうな空模様なのに、ベンチの浮浪人達は、朗らかな鼾声をあげて眠っている。
西郷さんの銅像も浪人戦争の遺物。
貴方と私は同じ郷里なんですよ。鹿児島が恋しいとお思いになりませんか、霧島山が桜島が、城山が、熱いお茶にカルカン[#「カルカン」に傍点]の甘味い頃ですね。
貴方も私も寒そうだ。
貴方も私も貧乏だ。
昼から工場に出る。生きるは辛し。
十二月×日
昨夜机の引き出しに入れてあった、松田さんの心づくし、払えばいゝんだ借りておこうかな、弱き者汝の名は貧乏なり。
[#ここから2字下げ]
家へかえる時間となるを
ただ一つ待つことにして
今日も働けり。
[#ここで字下げ終わり]
啄木はこんなに楽しそうに家にかえる事を歌っている、私は工場から帰えると棒のようにつっぱった足を二畳いっぱいに延ばして、大きなアクビをする、それがたった一つの楽しさだ。
二寸ばかりのキュウピーを一ツごまかして、茶碗をのせる棚に、のせて見る。
私の描いた瞳、私の描いた羽根、私が生んだキュウピーさん、冷飯に味噌汁をザクザクかけて、かき込む淋しい夜食。
松田さんが、妙に大きいセキ[#「セキ」に傍点]をしながら窓の下を通ると、台所からはいって、声をかける。
「もう御飯ですか、少し待っていらっしゃい肉を買って来たんですよ。」
松田さんも同じ自炊生活、仲々しまった人らしい。
石油コンロで、ジ……と肉を煮る匂いが、切なく口を濡す。
「済みませんが此葱切ってくれませんか。」
昨夜、無断で人の部屋の机の引き出しを開けて、金包みを入れておいたくせに、そうして、たった拾円ばかりの金を借して、もう馴々しく、人に葱を刻ませようとしている。
あんな人間に図々しくされると一番たまらない。
遠くで餅をつく勇ましい音が聞える。
私は沈黙ってボリボリ大根の塩漬を噛んでいたが、台所の方も佗しそうに、コツコツ葱を刻み出した。
「あゝ刻んであげましょう。」
沈黙っているにはしのびない悲しさで、障子を開けて、松田さんの鉋丁を取った。
「昨夜はありがとう、五円叔母さんに払って、五円残ってますから、五円お返ししときますわ。」
松田さんは沈黙って竹の皮から滴るように紅い肉片を取って鍋に入れていた。ふと見上げた歪んだ松田さんの顔に、小さい涙が一滴光っていた。
奥では弄花が始ったのか、叔母さんの、いつものヒステリー声がビンビン天井をつき抜けて行く。
松田さんは沈黙ったまま米を磨ぎ出した。
「アラ、御飯まだ焚かなかったんですか。」
「えゝ貴女が御飯を食べていらっしたから、肉を早く上げようと思って。」
洋食皿に割けてもらった肉が、どんな思いで私の食道を通ったか。
私は色んな人の姿を思い浮べた。
そしてみんなくだらなく思えた。
松田さんと結婚してもいゝと思えた、始めて松田さんの部屋へ遊びに行く。
松田さんは、新聞紙をひろげて、ゴソゴソさせながら、お正月の餅をそろえて笊へ入れていた。
あんなにも、なごやかにくずれていた気持ちが、又前よりもさらに凄くキリヽッと弓をはって、私はそっと部屋へ帰った。
「寿司屋もつまらないし……」
外は嵐。
キュウピーよ、早く鳩ポッポだ。
吹き荒さめ、吹き荒さめ、嵐よ吹雪よ。
[#ここから2字下げ]
――何だかあんまり長くなりましたので、これで一寸ひとやすみしましょう。気分が新らしくなりましたら、又続けます。長谷川氏及び愛読者諸氏の好意を謝します。筆者――
[#改ページ]
裸になって
四月×日
今日はメリヤス屋の安さんの案内で、親分のところへ酒を入れる。
道玄坂の漬物屋の露路口に、土木請負の看板をくゞって、奇麗ではないが、ふきこんだ格子を開けると、いつも昼間場所割りをしてくれるお爺さんが、火鉢のそばで茶をすゝっていた。
「今晩から夜店をしなさるって、昼も夜も出しゃあ、今に銀行が建ちましょうよ。」
お爺さんは人のいゝ高笑いをして、私の持って行った一升の酒を受取った。
誰も知人のない東京だ。恥ずかしいも糞もあったもんじゃない。ピンからキリまである東京だ。裸になり次手に、うんと働いてやろう。私は辛かった菓子工場の事を思うと、気が晴れ晴れとした。
夜。
私は女の万年筆屋さんと、当のない門札を書いているお爺さんの間に、店を出した。
蕎麦屋で借りた雨戸に私はメリヤスの猿股を並べて「弐拾銭均一」の札をさげると万年筆屋さんの電気に透して、ランデの死[#「ランデの死」に傍点]を読む。
大きく息を吸うともう春だ。この風には、遠い遠い思い出がある。
舗道は灯だ。人の洪水だ。
瀬戸物屋の前には、うらぶれた大学生が、計算記を売っている。
「諸君! 何万何千何百に、何千何百何十加えればいくらになる。皆判らんか、よくもこんなに馬鹿がそろったものだ。」
高飛車に出る、こんな商売も面白いものだな。
お上品な奥様が、猿股を弐拾分も捻って、たった一ツ買って行く。
お母さんが弁当持って来る。
暖かになると、妙に汚れが目にたつ、お母さんの着物も、さゝくれて来た。木綿を一反買ってあげよう。
「私が少し変るから、お前御飯お上り。」
お新香に竹輪の煮つけが、瀬戸の重ね鉢にはいっている。舗道に脊をむけて食べていると、万年筆屋の姉さんが、
「そこにもある、こゝにもあると云う品物ではござりません。お手に取って御覧下さいまし。」
私はふっと塩ぱい涙がこぼれた。
母はやっと一息ついた今の生活が嬉しいのか、小声で時代色のついた昔の唄をうたっている。
[#ここから3字下げ]
たったったっ田の中で……
[#ここで字下げ終わり]
九州へ行っている父さんさえこれでよくなったら、当分はお母さんの唄でないが、たったかたのた[#「たったかたのた」に傍点]だ。
四月×日
水の流れのような、薄いショールを街を歩く娘さん達がしている。一ツ欲しいな。洋品店の四月の窓飾りは、金と銀と桜の花だ。
[#ここから2字下げ]
空に拡った桜の枝に
うっすらと血の色が染まると
ほら枝の先から花色の糸がさがって
情熱のくじびき
食えなくてボードビルに飛び込んで
裸で踊った踊り子があったとしても
それは桜の罪ではない。
ひとすじの情
ふたすじの義理
ランマンと咲いた青空の桜に
生きとし生ける
あらゆる女の
裸の唇を
するする奇妙な糸がたぐって行きます。
花が咲きたいんじゃなく
強権者が花を咲かせるのです
前へ
次へ
全23ページ中15ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング