貧しい娘さん達は
夜になると
果実のように唇を
大空へ投げてやるのですってさ

青空を色どる桃色桜は
こうしたカレンな女の
仕方のないくちづけ[#「くちづけ」に傍点]なのですよ
そっぽをむいた
唇の跡なんですよ。
[#ここで字下げ終わり]

 ショールを買う金を貯める事を考えたら、ゼントリョウエン[#「ゼントリョウエン」に傍点]なので割引きの活動見に行く。フィルムは鉄路の白バラ。
 途中雨が降り出したので、活動から飛び出すと店に行く。
 お母さんは茣蓙をまるめていた。
 いつものように、二人で荷物を脊負って、駅へ行くと、花見帰えりの金魚のようなお嬢さんや、紳士達が、夜の駅にあふれて、藻のようにくねっていた。
 二人は人を押しわけて電車へ乗る。
 雨が土砂降りだ。いゝ気味だ。もっと降れもっと降れ。花がみんな散ってしまうといゝ。暗い窓に頬をよせて外を見ると、お母さんがしょんぼりと子供のように、フラフラしているのが写っている。
 電車の中まで意地悪がそろっているものだ。

 九州からの音信なし。

 四月×日
 雨にあたって、お母さんが風を引いたので一人で店を出しに行く。
 本屋には新らしい本がプンプン匂っている買いたいな。
 泥濘にて道悪し、道玄坂はアンコを流したような舗道だ。一日休むと、雨の続いた日が困るので、我慢して店を出す。
 色のベタベタにじんでいる街路に、私と護謨靴屋さんきりだ。
 女達が私の顔を見てクスクス笑って通る。頬紅が沢山ついているのか知ら、それとも髪がおかしいのか知ら、私は女達を睨み返えしてやった。
 女ほど同情のないものはない。
 ポカポカお天気なのに道が悪い。昼から隣にかもじ[#「かもじ」に傍点]屋さん店を出す。湯銭が弐銭上ったとこぼしていた。
 昼はうどん二杯たべるの――拾六銭也――

 学生が、一人で五ツも買って行ってくれた。今日は早くしまって芝へ仕入れに行って来よう。
 帰えり鯛焼きを拾銭買う。

「安さんがお前、電車にしかれて、あぶないちゅうが……。」
 帰えると、母は寝床の中から叫んだ。
 私は荷を脊負ったまゝ呆然としてしまった。
 昼過ぎ、安さんの家の者が知らせに来たと母は書きつけた病院の紙をさがしていた。

 夜芝の安さんの家へ行く。
 若いお上さんが、眼を泣き腫らして、病院から帰えって来た。
 少しばかり出来上っている品物をもらってお金を置いて帰える。
 世の中は、よくもよくもこんなにひゞ[#「ひゞ」に傍点]だらけになるものだ。昨日まで、元気にミシンのペタルを押していた安さん夫婦を思い出す。春だと云うのに、梅が咲いたと云うのに、私は電車の窓に凭れて、赤坂のお濠の灯をいつまでも眺めていた。

 四月×日
 父より長い音信来る。
 長雨で、飢えにひとしい生活をしていると云う。花壺へ貯めていた十四円の金を、お母さんが皆送ってくれと云う。明日は明日だ。
 安さんが死んでから、あんな軽便な猿股も出来なくなってしまった。
 もう疲れきった私達は、何もかもがメンドくさくなってしまった。
「死んだ方がましだ。」

 十参円九州へ送る。
「わし達ゃ三畳でよかけん、六畳ば誰ぞに貸さんかい。」
 かしま[#「かしま」に傍点]、かしま[#「かしま」に傍点]、かしま[#「かしま」に傍点]、私はとても嬉しくなって、子供のように書き散らすと、鳴子坂の通りへ張りに出た。

 寝ても覚めても、結局死んでしまいたい事に落ちるが、なにくそ! たまには米の五升も買いたいものだ。お母さんは近所の洗い張りでもしようかと云うし、私は女給と芸者の広告がめにつく。
 縁側に腰かけて、日向ぼっこしていると、黒い土から、モヤモヤ湯気がたっている。
 五月だ、私の生れた五月だ。歪んだガラス戸に洗った小切れをベタベタ張っていたお母さんは、フッと思い出した様に云った。
「来年はお前の運勢はよかぞな、今年はお前も、お父さんも八方塞りじゃで……。」
 明日から、此八方塞りはどうしてゆくつもりか! 運勢もへったくれもあったものじゃない、次から次から悪運のつながりだ。
 腰巻きも買いたし。

 五月×日
 かしま[#「かしま」に傍点]はあんまり汚ない家なので、まだ誰も来ない。
 お母さんは八百屋が借してくれたと云って大きなキャベツを買って来た。キャベツを見ると、フクフクと湯気の立つ豚カツでもかぶりつきたいな。
 がらんとした部屋の中で、寝ころんで天井を見ていると、鼠のように、小さくなって、色んなものを食い破って歩いたらユカイだろうと思った。

 夜の風呂屋で、母が聞いて来たと云って、派出婦になったらと相談した。いゝかも知れない。だが生れつき野性の私である。金満家の家風にペコペコする事は、腹を切るより切ない事だ。だが、お母さんの佗し気な顔を見ていたら、涙がダボダボあふれた。
 腹がへっても[#「腹がへっても」に傍点]、ひもじゅうない[#「ひもじゅうない」に傍点]とかぶり[#「かぶり」に傍点]を振っている時じゃないんだ、明日から、今から飢えて行く私達なのだ。
 あゝあの拾参円はとゞいたか知ら、東京が厭になった。早くお父さんがゆとり[#「ゆとり」に傍点]をつけてくれるといゝ。九州もいゝな四国もいゝな。
 夜更け、母が鉛筆をなめなめお父さんにたより[#「たより」に傍点]を書いているのを見て、誰かこんな体でも買ってくれる人はないかと思ったりした。

 五月×日
 朝起きたらもう下駄が洗ってあった。
 いとしいお母さん!
 大久保百人町のゆりのや[#「ゆりのや」に傍点]と云う派出婦会に行く。
 中年の女の人が二人店の間で縫いものをしていた。
 人がたりなかったので、そこの主人は、デンピョウのようなものと地図を私にくれた。行く先は、薬学生の助手だと云う。

 道を歩いている時が、一番ゆかいだ。五月の埃をあびて、新宿の陸橋をわたって、市電に乗ると、街の風景が、真に天下タイヘイ[#「タイヘイ」に傍点]にござ候と旗をたてゝいるようだ。此街を見ていると、何も事件がないようだ。買いたいものがぶらさがっている。
 私は桃割の髪をかしげて、電車のガラス窓でなおした。
 本村町で降りると、邸町になった露路の奥にそのうちがあった。
「御めん下さい。」
 大きな家だな、こんなでかい家の助手になれるか知ら……、何度もかえろうかと思いながら、ぼんやり立ちつくした。
「貴女派出婦さん! 派出婦会から、何時に出たって電話がかゝって来たのに、おそいので、坊ちゃん怒ってらっしゃるわ。」
 私が通されたのは、洋風なせまい応接室。
 壁には、色の褪せたミレーの晩鐘の口絵のようなのが張ってあった。面白くもない部屋だ。腰掛けは得たいが知れない程ブクブクしていた。
「お待たせしました。」
 何でも此男の父親は日本橋で薬屋をしているとかで、私の仕事は薬の見本の整理で、わけのない事だった。
「でもそのうち、僕の方の仕事が急がしくなると、清書してもらいたいのですがね、それに一週間程したら、三浦三崎の方へ研究に行くんですが来てくれますか。」
 此男は廿四五かな、私は若い男の年が、ちっとも判らないので、じっと脊の高いその人の顔を見ていた。
「いっそ派出婦の方を止して、毎日来ませんか。」
 私も、派出婦って、いかにも品物みたいな感じのするところよりその方がいゝと思ったので、一ヶ月三十五円で、約束してしまった。
 紅茶と、洋菓子が日曜の教会に行ったように少女の日を思い出させた。
「君はいくつですか?」
「廿一です。」
「もう肩上げをおろした方がいゝな。」
 私は顔が熱くなった。

 卅五円毎月つづくといゝな。だがこれも当分信じられはしない。
 母は、岡山の祖母がキトクだと云う電報を手にしていた。私にも母にも縁のない祖母さんだが、たった一人の義父のお母さんだし、これも田舎で、しょんぼりと、さなだ[#「さなだ」に傍点]帯の工場に、通っている一人の祖母さんが、キトクだと云う。どんなにしても行かなくてはいけない。九州の父へは、四五日前に金を送ったばかりだし、今日行ったところへ金を借りに行くのも厚かましいし。
 私は母と一緒に、四月もためているのに家主のとこへ行く。
 拾円かりて来る。沢山利子をつけて返えそうと思う。
 残りの御飯を弁当にして風呂敷に包んだ。

 一人旅の夜汽車は佗しいものだ。まして年をとってるし、さゝくれた身なりのまゝで、父の国へやりたくはないが、二人共絶体絶命のどんづまり故、沈黙って汽車に乗るより仕方がない。
 岡山までの切符を買ってやる。
 薄い灯の下に、下ノ関行きの急行列車が沢山の見送り人を吸いつけていた。

「四五日内には、前借りをしますから、そしたら、送りますよ。しっかりして行っていらっしゃい。しょぼしょぼ[#「しょぼしょぼ」に傍点]したら馬鹿よ。」
 母はくッくッ涙をこぼしていた。
「馬鹿ね、汽車賃は、どんな事しても送りますからね。安心して、お祖母さんのお世話していらっしゃい。」
 汽車が出てしまうと、何でもなかった事が悲しく切なく、目がぐるぐるまいそうだった。省線を止めて東京駅の前に出る。

 長い事クリームを塗らないので、顔が、ヒリヒリする。涙が止度なく馬鹿みたいに流れる。
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信ずる者よ来れ主のみもと……
[#ここで字下げ終わり]
 遠くで救世軍の楽隊が聞える。何が信ずるものでござんすかだ。自分の事が信じられなくて、たとえイエスであろうと、お釈迦さんであろうと、貧しい者は信じるヨユウ[#「ヨユウ」に傍点]がない、宗教なんて何だ。食う事に困らないものだから、街にジンタまで流している。
 信ずる者よ来れ……。まだ気のきいた春の唄がある。
 いっそ、銀座あたりの美しい街で、こなごなに血へどを吐いて、××さんの自動車にでもしかれてやろうか。
 いとしいお母さん、今貴女は戸塚、藤沢あたり、三等車の隅っこで何を考えています、どの辺を通っています……。

 卅五円が続くといゝな。
 お濠には、帝劇の灯がキラキラしている。私は汽車の走って行く線路を空想した。何もかも何もかもじっとしている。天下タイヘイで御座候か――。
[#改ページ]

   旅の古里

 六月×日
 海が見える。
 海が見える。
 五年振りに見る、旅の古里の海! 汽車が尾道の海へさしかゝると、煤けた小さい町の屋根が、提灯のように拡がって来る。
 赤い千光寺の塔が見える、山は若葉だ、海のむせた[#「むせた」に傍点]緑色の向うに、ドック[#「ドック」に傍点]の赤い船が、キリキリした帆柱を空に突きさしている。
 私は涙があふれた。

 借金だらけの私達親子三人が、東京行きの夜汽車に乗った時、町はずれに大きい火事があったが……。
「ねえ、お母さん! 私達の東京行きに、火が燃えるのは、きっといゝ事がありますよ。」しょぼしょぼ隠れるようにしている親達を私は、こう言って慰めたが、東京でむかえに来てくれる者は、学校へ行っている、私の男一人であった。
 だが、あれから、あしかけ六年、私はうらぶれた体で、再び旅の古里である尾道へ逆もどりしている。その男も、学校を出ると、私達を置きざりにして、尾道の向うの因の島へ帰えってしまった。
 気の弱い両親をかゝえた私は、当もなく昨日まで、あの雑音のはげしい東京を放浪していたが、あゝ今は旅の古里の海辺だ。海添いの遊女屋の行灯が、つばき[#「つばき」に傍点]のように白く点々と見える。
 見覚えのある屋根、見覚えのある倉庫、かつて自分の住居であった、海辺の朽ちた昔の家が、じっと息している。
 何もかも懐しい姿だ。少女の頃に吸った空気、泳いだ海、恋をした山の寺、何もかも、逆もどりしているような気がする。
 尾道を去る時の私は、肩上げもあったが、今の私の姿は、銀杏返えし、何度も水をくゞった疲れた単衣、別にこんな姿で行きたい家もないが、兎に角、もう汽車は尾道、肥料臭い匂いがする。

 午後五時
 船宿の時計が五時をさしている。待合所の二階から、町の灯を見ていると、妙に目頭が熱くなる。訪ずねて行こうと思
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