壁に書いてみた。
夕飯の仕度の出来るまで赤ん坊をおぶって廊下を何度も行ったり来たり。
秋江氏の家へ来て一週間あまり、先《さき》のメドもなさそうだ。
こゝの先生は、日に幾度も梯子段を上ったり降りたり、まるで廿日鼠《はつかねずみ》だ。あのシンケイにはやりきれない。
「チャンチンコイチャン! よく眠ったかい!」
私の肩を覗いては、先生は安心したようにじんじんばしょりして二階へ上って行く。私は廊下の本箱から、今日はチェホフを引っぱり出して読む。チェホフは心の古里だ。
チェホフの吐息は、姿は、みな生きて、たそがれの私の心に、何かブツブツものを言いかけて来る。
匂おわしい手ざわり、こゝの先生の小説を読んでいると、もう一度チェホフを読んでもいゝのになあと思う。京都のお女郎の事なんか、私には縁遠いねばねばした世界だ。
夜。
家政婦のお菊さんが、美味《おい》しそうなゴモク寿司をこしらえているのを見て、嬉しくなった。
赤ん坊を風呂に入れて、ひとしずまりすると、もう十一時だ。私は赤ん坊と云うものが大嫌いなんだが、不思議な事に、赤ん坊が私の脊におぶさると、すぐウトウト眠ってしまって、家の
前へ
次へ
全228ページ中171ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング