「馬鹿ね!」
 厚紙でも叩くようなかるい痛さで、お君さんは、ポンと私の手を打つと、蒲団の裾をジタジタとおさえてそっと又、裏梯子を降りて行った。
 あゝなつかしい世界だ。

 十月×日
 風が吹く。
 夜明近く水色の細い蛇が、スイスイと地を這っている夢を見た。
 それにとき[#「とき」に傍点]色の腰紐が結ばれていて、妙に起るとから[#「起るとから」はママ]、胸さわぎのするようないゝ事が、素的に楽しい事があるような気がする。

 朝の掃除がすんで、じっと鏡を見ていると、蒼くむくんだ顔は、生活に疲れ荒さんで、私はあゝと長い溜息をついて、壁の中にでもはいってしまいたかった。

 今朝も泥のような味噌汁と、残り飯かと思うと、支那そばでも食べたいなあと思った。
 私は何も塗らない、ぼんやりとした顔を見ていると、急に焦々として、唇に紅々と、べに[#「べに」に傍点]を引いてみた。

 あの人はどうしているかしら……AもBもCも、切れ掛った鎖をそっと掴もうとしたが、お前達はやっぱり風景の中の並樹だよ……。
 神経衰弱になったのか、何枚も皿を持つ事が恐ろしくなった。

 のれん[#「のれん」に傍点]越し
前へ 次へ
全228ページ中15ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング