弐拾五銭 一合。
引越し蕎麦    参拾銭  下へ。
[#ここで字下げ終わり]
一、壱円弐拾六銭 残金。

「心細いなあ……。」
 私は鉛筆のしん[#「しん」に傍点]で頬っぺたを突きながら、つん[#「つん」に傍点]と鼻の高い時ちゃんの顔をこっちに向けて日記をつけた。
「炭は?」
「炭は、下の叔母さんが取りつけの所から月末払らいで取ってやるってさ。」
 時ちゃんは安心したように、銀杏返えしの鬢を細い指で持ち上げて、私の脊に手を巻いた。
「大丈夫ってばさ、明日から、うんと働らくから芙美ちゃん元気を出して勉強して。浅草を止めて、日比谷あたりのカフェーなら通いでいゝだろうと思うの酒の客が多いんだって……。」
「通いだと二人とも楽しみよ、一人じゃ御飯もおいしくないね。」

 私は煩雑だった今日の日を思った。

 萩原さんとこのお節ちゃんに、お米も二升もらったり、画描きの溝口さんは、折角北海道から送って来たと云う、餅を風呂敷に分けてくれたり、指輪を質へ持って行ってくれたり。
「当分二人でみっしり働こうね。ほんとに元気を出して……。」
「雑色のお母さんのところへは参拾円も送ればいゝんだから。」
「私も少し位は原稿料がはいるんだから、沈黙って働けばいゝのね。」
 雪の音かしら、窓に何かサヽヽヽと当っている。
「シクラメンって厭な匂いだ。」
 時ちゃんは、枕元の紅いシクラメンの鉢をそっと押しやると、簪も櫛も抜いて、「さあ寝んねおしよ。」
 暗い部屋の中で、花の匂いだけが、強く私達をなやませた。

 一月×日
[#ここから2字下げ]
積る淡雪積ると見れば
消えてあとなき儚なさよ
柳なよかに揺れぬれど
春は心のかはたれに……
[#ここで字下げ終わり]
 時ちゃんの唄声でふっと目を覚ますと、枕元に、白い素足が並んでいた。
「もう起きたの……。」
「雪が降ってるよ。」
 起きると、湯もたぎって、窓外の板の上で、御飯もグツグツ白く吹きこぼれていた。
「炭もう来たの……。」
「下の叔母さんに借りたのよ。」
 いつも台所をした事のない時ちゃんが、珍らしそうに、茶碗をふいていた。
 久し振りに、猫の額程の茶ブ台の上で、幾年にもない長閑なお茶を呑む。
「やまと舘の人達や、当分誰にもところを知らさないでおきましょうね。」
 時ちゃんはコックリをして、小さな火鉢に手をかざす。
「こんなに雪が降っても出掛ける?」
「うん。」
「じゃあ私も時事新聞の白木さんに会ってこよう、童話がいってるから。」
「もらえたら、熱いものしといて、あっちこっち行って見るから、私はおそくなるよ。」
 始めて、隣りの六畳間の古着屋さん夫婦にもあいさつ[#「あいさつ」に傍点]をする。
 鳶の頭をしていると云う、下のお上さんの旦那にも会う。
 皆、歯ぎれがよくて下町人らしい。
「前は道路へ面していたんですよ、でも火事があって、こんなとこへ引っこんじゃって……前はお妾さん、露路のつきあたりは清元でこれは男の師匠でしてね、やかましいには、やかましゅうござんすがね……。」
 私はおはぐろ[#「おはぐろ」に傍点]で歯をそめているお上さんを珍らしく見た。
「お妾さんか、道理で一寸見たけどいゝ女だったよ。」
「でも下の叔母さんが、あんたの事を、此近所には一寸居ない、いゝ娘ですってさ。」
 二人は同じような銀杏返しをならべて雪の町へ出た。
 雪はまるで、気の抜けた泡のように、目も鼻もおおい隠そうとする程、元気に降っていた。
「金もうけは辛いね。」
 ドンドン降ってくれ、私が埋まる程、私はえこじ[#「えこじ」に傍点]に、傘をクルクルまわして歩いた。
 どの窓にも灯のついている八重洲の通りは、紫や、紅のコートを着た、務めする女の人達が、やっぱり雪にさからって[#「さからって」に傍点]いる。
 コートも着ない私の袖は、ぐっしょり濡れてしまって、みじめなヒキ蛙。
 白木さんはお帰えりになった後か、そうれ見ろ!
 これだから、やっぱりカフェーで働くと云うのに、時ちゃんは勉強しろと云う。広い受付けに、このみじめ[#「みじめ」に傍点]な女は、かすれた文字をつらねて、困っておりますから[#「困っておりますから」に傍点]とおきまりの置手紙を書いた。
 だが時事のドアーは面白いな、クルリクルリ、水車、クルリと二度押すと、前へ逆もどり、郵便屋が笑っていた。
 何と小さき人間達よ、ビルデングを見上げると、お前なんか一人生きてたって、死んだって同じじゃないかと云う。
 だが、あのビルデングを売ったら、お米も間代も一生はらえて、古里に長い電報が打てるだろう。
 ナリキン[#「ナリキン」に傍点]になるなんて、云ってやったら、邪けんな親類も、冷たい友人も、驚くだろう。

 あさましや芙美子
 消えてしまえ。

 時ちゃんは、かじかんで[#
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