海岸通りに出ると、チッチッと舌を鳴らして行く船員の群が多かった。
 船乗りは意気で勇ましくていゝなあ――
 私は商人宿とかいてある行灯をみつけると、ジンと耳を熱くしながら、宿代を聞きにはいった。
 親切そうなお上さんが、帳場にいて、泊りだけなら六十銭でいゝと、旅心をいたわるように「おあがりやす」と云ってくれた。

 三畳の壁の青いのが、変に淋しかったが、朝からの浴衣を着物にきかえると、宿のお上さんに教わって、近所の銭湯に行った。
 旅と云うものはおそろしいようで、肩のはらないもの。
 女達は、まるで蓮の花のように小さい湯舟を囲んで、珍らしい言葉でしゃべっている。
 旅の銭湯にはいって、元気な顔をしているが、あの青い壁に押されて寝る今夜の夢を思うと、私はふっと悲しくなった。

 七月×日
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坊さん簪買ふたと云うた……
[#ここで字下げ終わり]
 窓の下を人夫達が土佐節を唄いながら通って行く。
 ランマンと吹く風に、波のように蚊屋が吹きあげて、まことに楽しみな朝の寝ざめ、郷愁をおびた土佐節を聞いていると、高松のあの港が恋いしくなった。
 私の思い出に何の汚れもない四国の古里、やっぱり帰えろうかなあ……御飯焚きになってみたとこで仕用がないし……。
 オイ馬鹿!
 メス!
 赤豚!
 別れて来た男のバリゾウゴン[#「バリゾウゴン」に傍点]を、私は唄のように天井に投げとばして、バットを深々と吸った。
「オーイ、オーイ」船員達が呼びあっている。

 私は宿のお上さんに頼んで、岡山行きの途中下車の切符を、除虫菊の仲買の人に壱円で買ってもらうと、私は兵庫から、高松行きの船に乗る事にした。
 元気を出して、どんな場合にでも、へこたれてはならない。

 小さな店屋で、瓦煎餅を一箱買うと、私は古ぼけた、兵庫の船宿で、高松行きの三等切符をかった。やっぱり国へかえりましょう。
 透徹した青空に、お母さんの情熱が一本の電線となって、早く帰っておいでと呼んでいる。
 不幸な娘でございます。
 汚れたハンカチーフに、氷のカチ割りを包んで、私は頬に押し当てた。子供らしく子供らしく、すべては天真ランマンと世間を渡りましょう。
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   下谷の家

 一月×日
 カフェーで酔客にもらった指輪が、思いがけなく役立って、拾三円で質に入れると、私と時ちゃんは、千駄木の町通りを買物しながら歩いた。
 古道具屋で、箱火鉢と小さい茶ブ台を買ったり、沢庵や茶碗や、茶呑道具まで揃えると、あと半月分あまりの間代を入れるのが、せいいっぱい。
 原稿用紙も買えない。
 拾三円の金の他愛なさよ。

 白い息を吹きながら、二人が重い荷を両方から引っぱって帰った時は、十時近かった。
「芙美ちゃん! 前のうち小唄の師匠よ、ホラ……いゝわね。」

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傘さして
かざすや廓の花吹雪
この鉢巻は過ぎしころ
紫にほふ江戸の春
[#ここで字下げ終わり]

 目と鼻の露路向うの二階屋から、沈みすぎる程、いゝ三味線の音〆、細目にあけた雨戸の蔭には、灯に明るい、障子のこまかいサン[#「サン」に傍点]が見える。
「お風呂明日にして寝ましょう……上蒲団借りた?」
 時ちゃんはピシャリと障子を締めた。

 敷蒲団はたい[#「たい」に傍点]さんと私と一緒の時代のが、たい[#「たい」に傍点]さんが小堀さんとこへお嫁に行ったので残っていた。
 あの人は鍋も、包丁も敷蒲団も置いて行ってしまった。
 一番なつかしく、一番厭な思い出の残った本郷の酒屋の二階を思い出した、同居の軍人上りや、二階でおしめ[#「おしめ」に傍点]を洗ったその妻君や、人のいゝ酒屋の夫婦や。用が片づいたら、あの頃の日記でも出して読もう――。
「どうしたかしらたい子さん!」
「今度こそ幸福になったでしょう。小堀さん、とても、ガンジョウな人だそうだから、誰が来ても負けないわ……。」
「いつか遊びに連れて行ってね。」
「あゝ……。」
 二人は、下の叔母さんから借りた上蒲団をかぶって日記をつけた。
 一、拾参円の内より
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茶ブ台      壱円。
箱火鉢      壱円。
シクラメン一鉢  卅五銭。
飯茶わん     弐拾銭  二箇。
吸物わん     参拾銭  二箇。
ワサビヅケ    五銭。
沢庵       拾壱銭。
箸        五銭   五人前。
茶呑道具 盆つき 壱円拾銭。
桃太郎の蓋物   拾五銭。
皿        弐拾銭 二枚。
間代日割り    六円。(三畳九円)
火箸       拾銭。
餅網       拾弐銭。
ニームのつゆ[#「つゆ」に傍点]杓子 拾銭。
御飯杓子     参銭。
花紙一束     弐拾銭。
肌色美顔水    弐拾八銭。
御神酒    
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