と、ポッポッ! ポッポッ! 蒸汽船のような音がする。
あゝ尾の道の海! 私は海近いような錯覚をおこして、子供のように丘をかけ降りた。
そこは交番の横の工場のモーターが唸っているきりで、がらんとした広っぱ。
三宿の停留場に、しばし私は電車に乗る人のように立っていたが、お腹がすいて、めがまいそうだった。
「貴女! 随分さっきから立っていらっしゃいますが、何か御心配ごとでもあるのではありませんか。」
今さきから、じろじろ私を見ていた、二人の老婆が馴々しく近よると私の身体を四つの瞳で洗うように見た。
笑いながら涙をふりほどいている私を連れて、この親切なお婆さんは、ゆるゆる歩きだすと、信仰の強さについて、足の曲った人が歩けるようになったとか、悩みある人が、神の子として、元気に生活に楽しさを感じるようになったとか、天理教の話をしてくれた。
川添いのその天理教の本部は、いかにも涼しそうに庭に水が打ってあって、紅葉の青葉が、塀の外にふきこぼれていた。
二人の婆さんは神前に額ずくと、やがて両手を拡げて、異様な踊りを始めだした。
「お国はどちらでいらっしゃいますか?」
白い着物をきた中年の男が、私にアンパンと茶をすゝめながら、私の佗しい姿を見た。
「別に国と云って定まったところはありませんけれど、原籍は鹿児島県東桜島です。」
「ホウ……随分遠いんですなあ……。」
私はもうたまらなくなって、うまそうなアンパンを摘んで、一口噛むと、案外固くって、粉がボロボロ膝にこぼれ落ちていった。
何もない。
何も考える必要はない。
私はつと立って神前に額ずくと、プイと下駄をはいて表へ出てしまった。
パン屑が虫歯の洞穴の中で、ドンドンむれていってもいゝ。只口の中に味覚があればいゝのだ。
家の前へ行くと、あの男と同じ様に固く玄関は口をつぐんでいる。
私は壺井さんの家へ行くと、はろばろと足を投げ出して横になった。
「お宅に少しお米ありませんか?」
人のいゝ壺井さんの妻君もへこたれて、私のそばに横になると、一握の米を茶碗に入れたのを持って、生きる事が厭になってしまったわと云う話になってしまった。
「たい子さんとこ、信州から米が来たって云ってたから、あそこへ行ってみましょう。」
「そりゃあ、えゝなあ……。」
そばにいた伝治さんの妻君は両手を打って子供のように喜ぶ。真実いとしい人だ。
六月×日
久し振りに東京へ出る。
新潮社で加藤さんに会う。詩の稿料六円戴く。
いつも目をつぶって通る、神楽坂も今日は素的に楽しい街になって、店の一ツ一ツを覗いて通る。
[#ここから2字下げ]
隣人とか
肉親とか
恋人とか
それが何であろう
生活の中の食うと云う事が満足でなかったら
画いた愛らしい花はしぼんでしまう
快活に働きたいものだと思っても
悪口雑言の中に
私はいじらしい程小さくしゃがんでいる
両手を高くさしあげてもみるが
こんなにも可愛いゝ女を裏切って行く人間ばかりなのか
いつまでも人形を抱いて沈黙っている私ではない
お腹がすいても
職がなくっても
ウオオ! と叫んではならないんですよ
幸福な方が眉をおひそめになる。
血をふいて悶死したって
ビクともする大地ではないんです
陳列箱に
ふかしたてのパンがあるが
私の知らない世間は何とまあ
ピアノのように軽やかに美しいのでしょう
そこで始めて
神様コンチクショウと吐鳴りたくなります。
[#ここで字下げ終わり]
長い電車に押されると、又何の慰さめもない家へ帰えらなければならない。
詩を書く事がたった一つのよき慰さめ。
夜飯田さんとたい子さんが唄いながら遊びに来る。
[#ここから2字下げ]
俺んとこの
あの美しい
ケッコ ケッコ鳴くのが
ほしいんだろう……
[#ここで字下げ終わり]
壷井さんとこで、豆御飯をもらう。
六月×日
今夜は太子堂のおまつり。
家の縁から、前の広場の相撲場がよく見えるので、皆集って見る。
「西! 前田河ア」
と云う行司の呼ぶ声に、縁側に爪先立っていた私達はドッと吹き出して哄笑した。
知った人の名前なんか呼ばれると、とてもおかしくて堪らない。
貧乏していると、皆友情以上に、自分をさらけ出して一つになってしまう。
みんなよく話をした。
怪談なんかに話が飛ぶと、たい子さんは千葉の海岸で見た人魂の話をよくした。
この人は山国の生れか非常に美しい肌をもっている。やっぱり男に苦労する人だ。
夜更け一時過ぎまで花弄をする。
六月×日
萩原さん遊びに来る。
酒は呑みたし金はなしで、敷蒲団一枚屑屋に壱円五拾銭で売る。
お米がたりなかったので、うどんの玉をかってみんなで食べる。
酒の代りに焼酎を買って来る。
[#ここから2字下げ]
平手もて
吹雪
前へ
次へ
全57ページ中19ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング