にぬれし顔を拭く
反共産を主義とせりけり

酒呑めば鬼のごとくに青かりし
大いなる顔よ
かなしき顔よ。
[#ここで字下げ終わり]

 あゝ若人よ! いゝじゃないか、いゝじゃないか、唄を知らない人達は、啄木を高唱してうどんをつゝき焼酎を呑んだ。

 その夜、萩原さんを皆と一緒におくって行った夫が帰えって来ると、蚊帳がないので、部屋を締め切って、蚊取り線香をつけて寝につくと、
「オーイ起ろ起ろ!」ドタドタと大勢の足音がして、麦ふみのように地ひゞきが頭にひゞく。
「寝たふりをするなよお……。」
「起きているんだろう。」
「起きないと火をつけるぞ!」
「オイ! 大根を抜いて来たんだよ、うまいよ起きないかい……。」
 飯田さんと萩原さんの声が入りまじって聞える。
 私は笑いながら沈黙っていた。

 七月×日
 朝、寝床の中ですばらしい新聞を読んだ。
 元野子爵夫人が、不良少年少女の救済をすると云うので、円満な写真が新聞に載っていた。
 あゝこんな人にでもすがってみたなら、何とか、どうにか、自分の行く道が開けはしないかしら……私も少しは不良じみているし、まだ廿二だもの、不良少女か、私は元気を出して飛びおきると、新聞に載っている元野夫人の住所を切り抜いて私は麻布のそのお邸へ出掛けて行った。

 折目がついていても浴衣は浴衣だけど、私は胸を空想で、いっぱいふくらませていた。
「パンおつくりになる、あの林さんでいらっしゃいますか?」
 どういたしまして、パンを戴きに上りました林ですと心につぶやきながら、
「一寸おめにかゝりたいと思いまして……。」
「そうですか、今愛国婦人会の方ですが、すぐお帰えりですから。」
 女中さんに案内されて、六角のように突き出た窓ぎわのソファーに私は腰をかけて、美しい幽雅な庭にみいっていた。
 蒼っぽいカーテンを通して、風までが高慢にふくらんではいって来る。
「何う云う御用で……。」
 やがてずんぐりした夫人は、蝉のように薄い黒い夏羽織を着てはいって来た。
「あのお先きにお風呂をお召しになりませんか……。」
 どうも大したものだ、私は不良少女だって云う事が厭になって夫が肺病で困っていますから、少し不良少年少女をお助けになるおあまりを戴きたいと云った。
「新聞で何か書いたようでしたが、ほんのそう云う事業にお手助けしているきりで、お困りのようでしたら、九段の婦人会の方へでもいらっして、仕事をなさっては……。」
 程よく埃のように外にほうり出されると、彼女が、眉をさかだてなぜあの様な者を上へ上げましたッ! と女中を叱っているであろう事を思い浮べて、ツバキをひっかけてやりたくなった。
 へエ! 何が慈善だよ、何が公共事業だよだ。

 夕方になると、朝から何も食べない二人は暗い部屋にうずくまって、当のない原稿を書いた。
「ねえ、洋食を食べない……。」
「ヘエ!」
「カレーライス、カツライス、それともビフテキ?」
「金があるのかい?」
「うん、だって背に腹はかえられないでしょう、だから晩に洋食を取れば、明日の朝まで金を取りにこないでしょう。」

 始めて肉の匂をかぎ、ジュンジュンした油をなめると、めまいがしそうに嬉しくなる。
 一口位いは残しておかなくちゃ変よ、腹が少し豊かになると、生きかえったように私達は思想に青い芽をふかす。
 全く鼠も出ない有様なんだから――。

 蜜柑箱の机に凭れて童話をかき始める。
 外は雨の音、玉川の方で、ポンポン絶え間なく鉄砲を打つ音がする。深夜だと云うのに、元気のいゝ事だ。
 だが、いつまでも、こんな虫みたいな生活が続くのかしら、うつむいて子供の無邪気な物語りを書いていると。つい目頭が熱くなる。

 イビツ[#「イビツ」に傍点]な男とニンシキフソク[#「ニンシキフソク」に傍点]の女では、一生たったとて、白いおまんまが食えそうもないね。
[#改ページ]

   女の吸殻

 七月×日
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丘の上に松の木が一本
その松の木の下で
じっと空を見ていた私です

真蒼い空に老松の葉が
針のように光っていました
あゝ何と云う生きる事のむつかしさ
食べると云う事のむつかしさ

そこで私は
貧しい袂を胸にあわせて
古里に養われていた頃の
あのなつかしい童心で
コトコト松の幹を叩いてみました。
[#ここで字下げ終わり]

 この老松[#「老松」に傍点]の詩をふっと思い出すと、とても淋しくて、黒ずんだ緑の木立ちの間を、私は野良犬のように歩いた。
 久さし振りに、私の胸にエプロンもない。お白粉もうすい。
 日午傘[#「日午傘」はママ]くるくる廻わしながら、私は古里を思い出し、丘のあの松の木を思い浮べた。

 下宿にかえると、男の部屋には、大きな本箱がふえていた。
 女房をカフェーに働かして、自分はこん
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