こんな詩を頭に描いた。下で三時の鳩時計が鳴る。
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――日記が転々と飛びますが、その月の雑誌にしっくりしたものを抜いて書いておりますので、後日、一冊の本にする時もありましたならば、順序よくまとめて出したいと思っております。
[#ここで字下げ終わり]
[#地より2字上げ]――筆者――
[#改ページ]
粗忽者の涙
五月×日
世界は星と人とより成る。
嘘つけ! エミイル、※[#濁点付き片仮名ヱ、1−7−84]ルハァレンの世界と云う詩を読んでいるとこんなくだらない事が書いてある。
何もかもあくび[#「あくび」に傍点]いっぱいの大空に、私はこの小心者の詩人をケイベツしてやろう。
人よ、攀ぢ難いあの山がいかに高いとても、
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飛躍の念さへ切ならば、
恐れるなかれ不可能の、
金の駿馬をせめたてよ。
[#ここで字下げ終わり]
実につまらない詩だが、才子と見えて、実に巧い言葉を知っている。
[#ここから2字下げ]
金の駿馬をせめたてよ…………。
[#ここで字下げ終わり]
窓を横ぎって、紅い風船が飛んで行く。
呆然たり、呆然たり、呆然たりか……。何と住みにくい浮世でござりましょう。
故郷より手紙来る。
――現金主義になって、自分の口すぎ位いはこっちに心配かけないでくれ、才と云うものに自惚れてはならない。お母さんも、大分衰えている。一度帰っておいで、お前のブラブラ主義には不賛成です。
五円の為替を膝において、おありがとうござります[#「おありがとうござります」に傍点]。
私はなさけなくなって、遠い古里へ舌を出した。
六月×日
前の屍室に、今夜は青い灯がついている。又兵隊さんが一人死んだ。
青い窓の灯を横ぎって、通夜する兵隊さんの影が、二ツぼんやりうつっている。
「あら! 蛍が飛んどる。」
井戸端で黒島さんの妻君が、ぼんやり空を見ている。
「ほんとう?」
寝そべっていた私も縁端に出てみたが、もう何も見えなかった。
夜。
隣の壺井夫婦、黒島夫婦遊びに来る。
壺井さん曰く、
――今日はとても面白かった。黒島君と二人で市場へ、盥を買いに行ったら、金もはらわないのに、三円いくらのつり銭とたらい[#「たらい」に傍点]をくれて一寸ドキッとしたね。
「まあ! それはうらやましい、たしか、クヌウト・ハムスンの飢ゑ[#「飢ゑ」に傍点]と云う小説の中にも、蝋燭を買いに行って、五クローネルのつり銭と蝋燭をたゞでもらって来るところがありましたね。」
私も夫も、壺井さんの話は非常にうらやましかった。
梟の鳴いている、憂欝な森陰に、泥沼に浮いた船のように、何と淋しい長屋だろう。
屍室と墓地と病院と、淫売宿のようなカフェーに囲まれた、この太子堂の家もあきあきしてしまった。
「時に、明日はたけのこ[#「たけのこ」に傍点]飯にしないかね。」
「たけのこ[#「たけのこ」に傍点]盗みに行くか……。」
三人の男たちは路の向うの、竹籔を背にしている、床屋の二階の飯田さんをさそって、裏の丘へたけのこ[#「たけのこ」に傍点]盗みに出掛けて行った。
女達は街の灯を見たかったけれど、あきらめて、太子堂の縁日を歩いた。
竹籔の小路に出した露店のカンテラの灯が噴水の様に薫じていた。
六月×日
ほがらかな空なので、丘の上の絹のような緑を恋いして、久し振りに、貧しい女と男は散歩に出る話をした。
鍵を締めて、一足おくれて出ると、どっちへ行ったものか、男の蔭は見えない。
焦々して、陽照りのはげしい丘の路を行ったり来たりしたが、随分おかしな[#「おかしな」に傍点]話である。
あざみの茎のように怒りたった男は、私の背をはげしく突くと閉ざした家へはしってしまった。
「オイ! 鍵を投げろッ!」
又か……私は泥棒猫のように、台所からはいると、男はいきなり、たわし[#「たわし」に傍点]や茶碗を私の胸に投げつける。
あ、この瓢軽な粗忽者を、そんなにも貴方は憎いと云うのか……私はしょんぼり井戸端に立って、蒼い雲を見た。
右へ行く路が、左へまちがったからって、馬鹿だねえと云う一言ですむではないか。
私は自分の淋しい影を見ていると、ふっと小学校時代に、自分の影を見ては空を見ると、その影が、空にもうつっているあの不思議な世界のあった頃を思い出して、高々とした空を私は見上げた。
悲しい涙が湧きあふれて、私は地べたへしゃがむと、カイロの水売りのような郷愁の唄をうたいたくなった。
あゝ全世界はお父さんとお母さんでいっぱいなんだ。お父さんとお母さんの愛情が、唯一のものであると云う事を、私は生活にかまけて忘れておりました。
前垂れを掛けたまゝ竹籔や、小川や洋館の横を通って、だらだらと丘を降りる
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