あんたいくつ……。」
「僕ですか、廿二です。」
「ホウ……じゃ私の方が上だわ。」
げじげじ眉で、唇の厚いその顔を何故か、見覚えがあるようで、考え出せなかったが、ふと、私は急に明るくなれて、口笛でもヒュヒュと吹きたくなった。
月のいゝ夜だ、星が高く流れている。
「そこまでおくってゆきましょうか……。」
此男は妙によゆう[#「よゆう」に傍点]のある風景だ。
入れ忘れてしまっ[#「しまっ」に傍点]た国旗の下をくゞって、月の明るい町に出ると濁った息をフッと一時に吐く事が出来た。
一丁来ても二丁来ても二人共だまって歩いた。川の水が妙に悲しく胸に来て私自身が浅ましくなった。
男なんて皆火を焚いて焼いてしまえ。
私はお釈迦様にでも恋をしよう……ナムアミダブツのお釈迦様は、妙に色ッぽい目をして、私の此頃の夢にしのんでいらっしゃる。
「じゃあさよなら、あんたもいゝお嫁さんおもちなさいね。」
「ハァ?」
いとしの男よ、田舎の人はいゝ。私の言葉がわかったのか、わからないのか、長い月の影をひいて隣りの町へ消えてしまった。
明日こそ荷づくりして旅立とう……。
久し振りに家の前の三のついたお泊り宿の行灯を見ると、不意に頭をどやしつけられたようにお母さんがいとしくなって、私はかたぶいた梟の瞳のような行灯をみつめていた。
「寒いのう……酒でも呑まんかいや。」
茶の間で母と差しむかいで、一合の酒にいゝ気持ちになって、親と云うものにふと気がついた。親子はいゝな、こだわりのない気安さで母の多いしわ[#「しわ」に傍点]を見た。
鼠の多い煤けた天井の下に、又母を置いて去るのは、いじらしく可哀想になってしまった。
「あんなもん、厭だねえ。」
「気立はいゝ男らしいがな……」
淋しい喜劇!
東京の友達がみんな懐しがってくれるような手紙を書こう。[#地から2字上げ]――一九二八・一二――
[#改ページ]
古創
一月×日
[#ここから2字下げ]
海は真白でした
東京へ旅立つその日
青い蜜柑の初なりを籠いっぱい入れて
四国の浜辺から天神丸に乗りました。
海はきむずかしく荒れていましたが
空は鏡のように光って
人参灯台の紅色が瞳にしみる程あかいのです。
島でのメンドクサイ悲しみは
すっぱり捨てゝしまおうと
私はキリのように冷い風をうけて
遠く走る帆船をみました。
一月の白い海と
初なりの蜜柑の匂いは
その日の私を
売られて行く女のようにさぶしくしました。
[#ここで字下げ終わり]
一月×日[#「 一月×日」は底本では「一月×日」]
おどろおどろ[#「おどろおどろ」に傍点]した雪空だ。
朝の膳の上は白い味噌汁に、高野豆腐に黒豆、何もかも水っぽい舌ざわりだ。東京は悲しい思い出ばかり、いっそ京都か大阪で暮らしてみよう……。
天保山の安宿の二階で、ニャーゴニャーゴ鳴いている猫の声を寂しく聞きながら私は寝そべっていた。
あゝこんなにも生きる事はむずかしいものか……私は身も心も困憊しきっている。
潮たれた蒲団はまるで、魚の腸のようにズルズルに汚れていた。
ビュン! ビュン! 風が海を叩いて、波音が高い。
からっぽな女は私でございます……生きてゆく才もなければ、生きてゆく富もなければ生きてゆく美しさもない。
さて残ったものは血の多い体ばかり。
私は退屈すると、片方の足を曲げて、キリキリと座敷の中をひとまわり。
長い事文字に親しまない目には、御一泊壱円より[#「御一泊壱円より」に傍点]と白々しく壁に張られた文句をひろい読みするばかりだった。
夕方――ボアリボアリ雪が降った来た[#「降った来た」はママ ]。
あっちをむいても、こっちをむいても旅の空、もいちど四国の古里へ逆もどりしようか、とても淋しい鼠の宿だ。
――古創や恋のマントにむかひ酒――
お酒でも楽しんでじっとしていたい晩だ。
たった一枚のハガキをみつめて、いつからか覚えた俳句をかきなぐりながら、東京の沢山の友達の顔を思い浮べた。
皆自分に急がしい人ばかりの顔だ。
ボオウ! ボオウ! 汽笛の音を聞くと、私はいっぱいに窓を引きあけて雪の夜の沈んだ港に呼びかけた。
青い灯をともした船がいくつもねむっている。
お前も私もヴァガボンド。
雪々雪が降っている。考えても見た事のない、遠くに去った初恋の男が急に恋いしくなって来た。
こんな夜だった。
あの男は城ヶ島の唄をうたった。
沈鐘の唄もうたった。なつかしい尾道の海はこんなに波は荒くはなかった。
二人でかぶったマントの中で、マッチをすりあわして、お互いに見あった顔、一度のベエゼも交した事もなく、あっけない別離だった。
一直線に墜落した女よ! と云う最後のたよりを受取ってもう七年にもなる。あの男は
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