、ピカソの画を論じ槐多の詩を愛していた。

 これでもかッ! まだまだ、これでもかッ! まだまだ、私の頭をどやしつけている強い手の痛さを感じた。
 どっかで三味線の音がする。私は呆然と座り、いつまでも口笛を吹いていた。

 一月×日
 さあ! 素手でなにもかもやりなおしだ。

 市の職業紹介所の門を出ると、私は天満行きの電車に乗った。
 紹介された先は毛布の問屋で、私は女学校卒業の女事務員、どんよりと走る街並を眺めながら、私は大阪も面白いなと思った。
 誰も知らない土地で働く事もいゝじゃないか、枯れた柳の木が腰をもみながら、河筋にゆれている。
 毛布問屋は案外大きい店だった。
 奥行きの深い、間口の広いその店は、丁度貝のように暗くて、働いている七八人の店員達は病的に蒼い顔をして、急がしく立ち働いていた。
 随分長い廊下だった。何もかにもピカピカと手入れの行きとゞいた、大阪人らしいこのみ[#「このみ」に傍点]のこじんまりした座敷に私は始めて、老いた女主人と向きあった。
「東京から、どうしてこっちゃいお出でやしたん?」
 出鱈目に原籍を東京にしてしまった私は、一寸どう云っていいかわからなかった。
「姉がいますから……。」
 こんな事を云ってしまった私は、又いつものめんどくさい[#「めんどくさい」に傍点]気持になってしまった。断られたら断られたまでの事だ。

 おっとりした女中が、美しい菓子皿とお茶を運んで来た。
 久しくお茶にも縁が薄く、甘いものも長い事口にしなかった。
 世間にはこうしたなごやかな家もある。
「一郎さん!」
 女主人が静かに呼ぶと、隣の部屋から、息子らしい落ちつきのある廿五六の男が、棒のようにはいって来た。
「この人が来ておくれやしたんやけど……。」
 役者のように細々としたその若主人は光った目で私を見た。
 私はなぜか恥をかきに来たような気がして、ジンと足が痺れて来た。あまりに縁遠い世界だ。
 私は早く引きあげたい気持でいっぱいだった。
 天保山の船宿に帰った時は、もう日も暮れて、船が沢山はいっていた。
 東京のお君ちゃんからのハガキ一枚。
 ――何をぐずぐずしているの、早くいらっしゃい。面白い商売があります。――どんなに不幸な目にあっていても、あの人は元気がいゝ。久し振に私もハツラツとなる。

 一月×日
 駄目だと思っていた毛布問屋に務める事になった。
 五日振りに天保山の安宿をひきあげて、バスケット一ツの漂々とした私は、もらわれて行く犬の子のように、毛布問屋に住み込む事になった。
 昼でも奥の間には、ポンポロ ポンポロ音をたてゝガスの灯がついている。漠々としたオフィスの中で、沢山の封筒を書きながら、私はよくわけのわからない夢を見た。そして何度もしくじって[#「しくじって」に傍点]は自分の顔を叩いた。
 あゝ幽霊にでもなりそうだ。
 青いガスの灯の下でじっと両手をそろえてみると爪の一ツ一ツが黄に染って、私の十本の指は蚕のように透きとおって見える。
 三時になると、お茶が出て、八ツ橋が山盛り店へ運ばれて来る。
 店員は皆で九人居た。その中で小僧が六人皆配達に行くので、誰が誰やらまだ私にはわからない。
 女中は下働きのお国さんと上女中のお糸さん二人。
 お糸さんは昔の(御殿女中)みたいに、眠ったような顔をしていた。
 関西の女は物ごしが柔らかで、何を考えているのだかさっぱり判らない。
「遠くからお出やして、こんなとこしんき[#「しんき」に傍点]だっしゃろ……。」
 お糸さんは引きつめた桃割れをかしげて、キュキュ糸をしごきながら、見た事もないような昔しっぽい布を縫っていた。
 若主人の一郎さんには、十九になるお嫁さんがある事もお糸さんが教えてくれた。
 そのお嫁さんは市岡の別宅の方にお産をしに行っているとかで、家はなにか気が抜けたように静かだった。

 夜の八時にはもう大戸を閉めてしまって、九人の番頭や小僧さん達が皆どこへひっこむのか、一人一人居なくなってしまう。
 のり[#「のり」に傍点]のよくきいた固い蒲団に、のびのびといたわるように両足をのばして、じっと天井を見ていると、自分がしみじみ、あわれにみすぼらしくなって来る。

 お糸さんとお国さんの一緒の寝床に、高下駄のような感じの黒い箱枕がちん[#「ちん」に傍点]と二ツならんで、お糸さんの赤い胴抜きのした長襦袢が蒲団の上に投げ出されてあった。
 私はまるで男のような気持ちで、その赤い長襦袢をいつまでもみていた。しまい湯をつかっている、二人の若い女は笑い声一つたてないで、ピチャピチャ湯音をたてゝいる。
 あの白い生毛のたったお糸さんの美しい手にふれてみたい気がする、私はすっかり男になりきった気持で、赤い長襦袢を着たお糸さんを愛していた。
 あゝ私が男だったら世界
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