けてあった。
 隣室では又今夜も秋刀魚か、十ちゃんの羽織を壁にかけているとクツクツ十ちゃんが笑いながら梯子段を上って来る。
「お芳ちゃんがたずねて来てね、二人で風呂へ行ったの。」皆カフェーの友達、此女は英百合子[#「英百合子」に傍点]に似ていて、肌の美しい女だった。
「十ちゃんも出てしまうし、面白くないから出て来ちゃったわ、二日程泊めて下さいね。」まるで綿でも詰ってるかの様に大きい髷《まげ》なしをセルロイドの櫛でときつけながら、
「女ばかりもいゝものね……時ちゃん此間あってよ。どうも思わしくないから、又カフェーへ逆もどりしようかって云ってたわ。」
 お芳さんが米も、煮えているカレーも炭も買ってくれたんだと云って十子がかいがいしく茶ブ台に茶碗をそろえていた。
 久し振りに明るい気持ちになる。
 敷蒲団がせまいので、昼夜帯をそばに敷て、私が真中、三人並んで寝る事にした。何処か三畳の部屋いっぱいが女の息ではち切れそうな思いだった。
 高いところからおっこちるような夢ばかり見る。

 三月×日
 新聞社に原稿あずけて帰えって来ると、ハガキが一枚来ていた。
 今夜来ると云う、あの男からの速達だ。
 十ちゃんも芳ちゃんも仕事を見つけに行ったのか、部屋の中は火が消えたように淋しかった。
 あんな男に金を借してくれなんて言えたもんではないじゃないか。十ちゃんに相談してみようかしら……。
 妙に胸がさわがしくなる。
 あのヴァニティケースだって、ほてい[#「ほてい」に傍点]屋の開業日だって云うので、物好きに買って来た何割引きかのものなのなんだ。そうして、偶然に私の番だったので、くれたようなものゝ、別にあっち[#「あっち」に傍点]からも、こっち[#「こっち」に傍点]からも路傍の人以外に、何でもありはしない。
 あんなハガキ一本で来ると云う速達、それにあっちの人はもうかなりな年だし、私は歯がズキズキする程胸さわがしくなってしまった。
 夜――。霰まじりの雪が降りだした。
 女達はまだ帰えって来ない。
 雪を浴びた林檎の果実籠をさげて、ヴァニティケースをくれた男来る。神様よ笑わないで下さい。私の本能なんてこんなに汚れたものではないのです。私は沈黙って両手を火鉢にかざしていた。
「いゝ部屋にいるんだね。」
 此男は、まるで妾の家へでもやって来たかの如く、オーヴァをぬぐと、近々と顔をさしよせて、
「そんなに困っているの……。」と云う。
「拾円位ならいつでも借してあげるよ。」
 暗いガラス戸をかすめて雪がちらしのように通って行く。
 私の両手を、男は自分の大きい両手でパンのようにはさむと、アイマイな言葉で「ね!」と云った。私はたまらなく憎しみを感じると、涙を振りほどきながら、男に云った。
「私は淫売婦じゃないんですよ。食えないから、お金だけが借してほしかったのです。」
 隣室で、妻君のクスクス笑う声が聞こえる。
「誰です笑っているのは! 笑らいたければ私の前で笑って下さい! 蔭でなぞ笑うのは止して下さい!」
 男の出て行った後、私は二階から果物籠を地球のようにほうり投げてやった。
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   女アパッシュ

 二月×日
 あゝ何もかも犬に食われてしまえ!
 寝転ろんで鏡を見ていると、歪んだ顔が少女《むすめ》のように見えて、体中が妙に熱《ねつ》っぽくなって来る。
 こんなに髪をくしゃくしゃにして、ガランスのかった古い花模様の蒲団の中から乗り出していると、私の胸が夏の海のように泡立って来る。汗っぽい顔を、畳にべったり押しつけてみたり、むき出しの足を鏡に写して見たり、私は打ちつけるような激しい情熱を感じると、蒲団を蹴って窓を開けた。

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――思いまわせばみな切な、貧しきもの、世に疎きもの、哀れなるもの、ひもじきもの、乏しく、寒く、物足らぬ、果敢なく、味気なく、よりどころなく、頼みなきもの、捉えがたくあらわしがたく、口にしがたく、忘れ易く、常なく、かよわなるもの、詮ずれば仏ならねど此世は寂し。
[#ここで字下げ終わり]

 チョコレート色のアトリエの煙を見ていると、白秋のこんな詩をふっと口ずさみたくなってくる、真《まこと》に頼みがいなき人の世かな。
 三階の窓から見降ろしていると、モデル女の裸がカーテンの隙間から見える。青ペンキのはげた校舎裏の土俵の日溜《ひだま》りでは、ルパシカの紐の長い画学生達が、之は又|野方図《のほうず》もなく長閑なすもう[#「すもう」に傍点]の遊び。
 上から口笛をプイプイ吹いてやると、カッパ頭が皆三階を見上げる。さあその土俵の上に此三階の女は飛び降りて行きますよッて吐鳴ったら、皆喜こんで拍手してくれるだろう――。
 川端画塾横の石屋のアパートに越して来てもう十日あまり、寒空に毎日チョコレート色のストオヴの
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