煙を眺めて、私は二十通あまりも履歴書を書いた。
原籍を鹿児島県、東桜島、古里、温泉場だなんて書くと、あんまり遠いので誰も信用してくれないんです、だから東京に原籍を書きなおすと、非常に肩が軽るくて、説明も入らない。
「オーイ」
障子にバラバラ砂ッ風が当ると、下の土俵場から、画学生達はキャラメルをつぶて[#「つぶて」に傍点]のように投げてくれる。そのキャラメルの美味《うま》かったこと……。
隣りの女学生かえって来る。
「うまくやってるわ!」
私のドアを乱暴に蹴って、道具をそこへほうり出すと、私の肩に手をかけて、
「ちょいと画描きさん、もっとほおって[#「ほおって」に傍点]よ。も一人ふえたんだから……。」
「…………。」
下から、遊びに行ってもいゝか? って云うサインを画学生達が投げると、此十七の女学生は指を二本出してみせた。
「その指何の事よ。」
「これ! 何でもないわ、いらっしゃいって言う意味にも取っていゝし、駄目駄目って事だっていゝわ……。」
此女学生は不良パパと二人きりで此アパートに間借りしていて、パパが帰えって来ないと私の蒲団にもぐり込みに来る可愛らしい少女だった。
「私の父さん? さくらあらいこ[#「さくらあらいこ」に傍点]の社長よ。」
だから私は石鹸よりも、このあらいこをもらう事が多い。
「ね、つまらないわね。私月謝がはらえないので、学校止してしまいたいのよ。」
火鉢がないので、七輪に折り屑を燃やして炭をおこす。
「階下《した》の七号に越して来た女ね、時計屋さんの妾だって、お上さんがとてもチヤホヤしていて憎らしいたら……。」
彼女の呼名はいくつもあるので判らないんだが、自分ではベニがねと云っていた。ベニのパパはハワイ[#「ハワイ」に傍点]に長い事行っていたとかで、ビール箱でこしらえた大きいベッドにベニと寝ていた。
何をやっているのか見当もつかないのだが、桜あらいこ[#「桜あらいこ」に傍点]の空袋が沢山持ちこまれる事がある。
「私んとこのパパあんなにいつもニコニコ笑ってるけど、とても淋しいのよ、あんたお嫁さんになってくんない。」
「馬鹿ね! ベニさんは、私はあんなお爺さん大嫌いよ。」
「だってうちのパパ一人でおくのはもったいないって、若い女が一人でゴロゴロしている事は、とてもそんだ[#「そんだ」に傍点]ってさア。」
三階建の此ガクガクのアパートが、火事にでもならないかしら。
寝転ろんで新聞を見る。
きまって目の行くところは、芸者と求妻と、貸金と女中の欄だ。
「お姉さん! こんど常盤座へ行かない、三館共通で、朝から見られるわ、私歌劇女優になりたくて仕様がないのよ。」
ベニは壁に手の甲をぶっつけながら、リゴレットを鼻の先きで唄っていた。
夜
松田さん遊びに来る。
私は此人に拾円あまりも借りがあって、それを払えないのがとても苦しい。あのミシン屋の二階を引き払って、こんな貧乏アパートに越して来たのも一つは松田さんの親切から逃げたい為だった。
「貴女にバナヽを食べさせようと思って持って来たのです。食べませんか。」
此人の言う事は、一ツ一ツ何か思わせぶりな言いかたになる。
本当はいゝ人なんだがけち[#「けち」に傍点]でしつこく[#「しつこく」に傍点]て、小さい事が一番嫌いだった。
「私は自分が小さいから、結婚するんだったら、大きい人と結婚するわ。」
いつもこう言ってあるのに、此人は毎日のように遊びに来る。
さよなら! そう云って帰えって行くと、非常にすまない気持ちで、こんど[#「こんど」に傍点]会ったら優しい言葉をかけてあげようと思っても、こうして会うと、シャツの目立って白いのなんかとてもしゃく[#「しゃく」に傍点]だった。
「いつまでもお金かえせないで、本当にすまなく思っています。」
松田さんは酒にでも酔っているのか、わざとらしくつっぷしてゴブゴブ涙の息をしていた。
さくらあらいこ[#「さくらあらいこ」に傍点]の所へ行くの厭だけど、自分の好かない場違いの人の涙を見ている事が辛らくなったので、そっとドアのそばへ行く。
あゝ拾円と云う金が、こんなにも重苦しい涙を見なければならないのかしら、その拾円がみんな、ミシン屋の叔母さんのふところへ、はいって私には素通して行っただけの拾円だった。
セルロイド工場の事。
自殺したお千代さんの事。
ミシン屋の二畳でむかえた貧しい正月の事。
あゝみんなすぎてしまったのに、小さな男の涙姿を見ていると、同じような夢を見ている錯覚がおこる。
「今日は、どんなにしても話したい気持ちで来たんです。」
松田さんのふところには、剃刀のようなものがキラキラ見えた。
「誰が悪るいんです! 変なまねは止めて下さい。」
こんなところで、こんな好きでもない男に殺ろ
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