り込んで来た。
「あゝ極楽! 極楽!」
 すべすべと柔い十子のふくらっはぎ[#「ふくらっはぎ」に傍点]に私の足がさわると、彼女は込み上げて来る子供の様な笑い声で、クツクツおかしそうに笑った。
 寒い夜気に当って、硝子窓がピンピン音をたてゝいる。
 家を持たない女が、寝床を持たない女が、可愛らしい女が、安心して裾にさしあって寝ている。私はたまらなくなって、飛びおきると、火鉢にドンドン新聞をまるめて焚いた。
「どう? 少しは暖い!」
「大丈夫よ……。」
 十子は蒲団を頬迄しずり上げると、虫の様に泣き出してしまった。
 午前一時。
 二人で支那そばを食べる。
 朝から何もたべていなかった私は、その支那そばがみんな火になるような気がした。
 炬燵がなくとも、二人でさしあって蒲団にはいっていると、平和な気持ちになる。いゝものを根限り書こう――。

 二月八日
 朝六枚ばかりの短編を書きあげる。
 此六枚ばかりのものを持って、雑誌社をまわる事は憂鬱になって来た。十子食パンを一斤買って来る。
 古新聞を焚いて茶をわかしていると、暗澹とした気持ちになって、一切合切が、うたかたの泡より儚なく、めんどくさく思えて来る。
「私つくづく家でも持って落ちつきたくなったわ、風呂敷一ツさげてあっちこっち、カフェーや、バーをめがけて歩くの心細くなって来たの……。」
「私なんか、家なんかちっとも持ちたくなんぞならないわ。此まゝ煙のように呆っと消えられるものなら、その方がずっといゝ。」
「つまらないわね。」
「いっそ、世界中の人間が、一日に二時間だけ働くようになれば、あとは野や山に裸で踊れるじゃないの、生活とは? なんて、めんどくさい事考えなくてもいゝのにね。」

 階下より部屋代をさいそくされる。
 カフェー時代に、私に安ものゝ、ヴァニティケースをくれた男があったが、あの男にでも金をかりようかしら……。
「あゝあの人! あの人ならいゝわ、ゆみちゃんに参ってたんだから……。」
 ハガキを出す。

 神様! こんな事が悪い事だとお叱り下さいますな。

 二月×日
 思いあまって、夜、森川町の秋声氏のお宅に行く。
 国へ帰えると嘘を言って金を借りるより仕方がない。自分の原稿なんか、頼む事は、あんまりはずかしい気がするし、レモンを輪切りにしたような電気ストーヴが赤くかくかく燃えて、部屋の中は、私の心と五百里位は離れている。
 犀の同人で、若い青年がはいって来た、名前を紹介されたが、秋声氏の声が小さかったので聞きとれなかった。
 金の話も結局駄目になって、後で這入て来た順子さんの華やかな笑声に押されて、青年と私と、秋声氏と順子さんと四人は外に出た。
「ね、先生! おしる粉でも食べましょうよ。」
 順子さんが夜会巻き風な髪に手をかざして秋声氏の細い肩に凭れて歩いている。私は鎖につながれた犬の感じがしないでもなかったが、非常に腹がすいていたし、甘いものへの私の食慾は、あさましく犬の感じにまでおちてしまった。
 誰かに甘えて、私もおしる粉を一緒に食べる人をさがすかな。四人は、燕楽軒の横の坂をおりて、梅園と云う、待合のようなおしる粉屋へはいる。黒い卓子について、つまみのしそ[#「しそ」に傍点]の実を噛むと、あゝ腹いっぱい茶づけが食べてみたいなと思った。

 しる粉屋を出ると、青年と別れて、私達三人は、小石川の紅梅亭に行く。賀々寿々の新内と、三好の酔っぱらいに一寸涙ぐましくなって、いゝ気持ちであった。
 少しばかりの金があれば、こんなにも楽しい思いが出来る。まさか紳士と淑女に連れそって来た私が、お茶づけを腹いっぱい食いたい事にお伽話のような空想を抱いていると誰が思うだろうか!
 順子さんは、よせ[#「よせ」に傍点]も退屈したと云う、三人は雨のそぼ降る肴町の裏通りを歩いた。
「ね、先生! 私こんどの××の小説の題なんてつけましょう、考えてみて頂戴な、流れるまゝには少しチンプだったから……。」
 順子さんの薄い扇が、コウモリのように見えた。
 団子坂のエビスで紅茶を呑むと、順子さんは、寒いから、何か寄せ鍋でもつゝきたいと云う。
「どこが美味《うま》いか知ってらっしゃる?」
 秋声氏は子供のように目をしばしばさせて、「そうね……。」私はお二人に別れようと思った。
 二人に別れて、小糠雨を十ちゃんの羽織に浴びながら、団子坂の文房具屋で、原稿用紙を一帖買ってかえる。――八銭也――
 ワァッ! と体中の汚れた息を吐き出しながら、まるで尾を振る犬みたいな女だと私は私を大声あげて嘲笑ってやった。

 帰えったら、部屋の火鉢に、パチパチ切り炭が弾けていて、カレーの匂いがぐつぐつ泡をふいていた。
 見知らない赤いメリンスの風呂敷が部屋の隅に転がって、新らしい蛇の目の傘がしっとり濡れたまゝ縁側に立てか
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