の爺さんに断わって、家へ入れて貰う。古呆て妖怪じみた長火鉢の中には、突きさした煙草の吸殻が、しぶき[#「しぶき」に傍点]のように見えた。
壁に積んである、沢山の本を見ていると、なぜか、舌に※[#「さんずい+垂」、236−7]が湧いて、此書籍の堆積が妙に私をゆうわく[#「ゆうわく」に傍点]してしまった。
どれを見ても、カクテール製法の本ばかり、一冊売ったらどの位になるかしら、支那蕎麦[#「支那蕎麦」に傍点]に、てん丼[#「てん丼」に傍点]に、ごもく寿司[#「ごもく寿司」に傍点]、盗んで、すいて[#「すいて」に傍点]いる腹を満たす事は、悪い事ではないように思えた。
火のない長火鉢に、両手をかざしていると、その本の群立が、大きい目玉をグリグリさせて、私を笑っているように見える。障子の破れが奇妙な風の唄をうたった。
あゝ結局は、硝子一重さきのものだ。果てしもなく砂に溺れた私の食慾は、風のビンビン吹きまくる公園のベンチに転ろがるより仕ようがない。
へゝッ! 兎に角、二々が四だ。弐銭銅貨が、すばらしく肥え太ったメン鶏にでも生れかわってくれないかぎり、私の胃のふ[#「胃のふ」に傍点]は永遠の地獄だ。
歩いて、池の端から千駄木町に行く。恭ちゃんの家に寄る。
がらんどう[#「がらんどう」に傍点]な家の片隅に、恭ちゃんも節ちゃんも凸坊も火鉢にかじりついていた。
這うような気持ちで、御飯をよばれる。口一杯に御飯を頬ばっている時、節ちゃんが、何か一言優さしい言葉をかけてくれた。
何か、胸がズンと突き上げる気持ち、口の飯が古綿のように拡がって、火のように涙が噴きこぼれた。
塩っぽい涙をくゝみながら、わんわん泣き笑いすると、凸坊が驚いて、玩具をほうり出して一緒に泣き出してしまった。
「オイ! 凸坊! おばちゃんに負けないで、もっともっと大きい声で泣け、遠慮なんかしないで、汽笛の様な大きな声で泣くんだよ。」
恭ちゃんがキラキラした瞳で凸坊の頭を優しく叩くと、まるで町を吹き流して来る、じんた[#「じんた」に傍点]のクラリオネットみたいに、凸坊は節をつけて大声あげた。
私の胸には、おかしく温いものが流れた。
「時ちゃんて娘どうして……。」
「月始めに別れちゃったわ、どこへ行ったんだか、仕合せになったでしょう……。」
「若いから貧乏に負けっちまうのよ。」
赤い毛糸のシャツを二枚持っているから、一枚節ちゃんに上げよう、白々とした肌が寒気だった。
寝転ろんで、天井を睨んでいた恭ちゃんが、此頃つくった詩だと云って、それを大きい声で朗読してくれた。
激しい飛び散るような、その詩を聞いていると、私一人が飢えるとか飢えないとかの問題が、まるで子供の一文菓子のようにロマンチックで、感傷的《センチメンタル》で、私は私の食慾を嘲笑したくなった。
正しく盗む事も不道徳ではないと思えた。
帰えって今夜はいゝものを書こう。コオフン[#「コオフン」に傍点]しながら、楽しみに夜風のリンリンした町へ出た。
[#ここから2字下げ]
星がラッパを吹いている
突きさしたら血が吹きこぼれそうだ
破れ靴のように捨てられた白いベンチの上に
私はまるで淫売婦のような姿体で
無数の星の冷たさを愛している
朝になれば
あんな|空の花《ほし》は消えてしまうじゃないか
誰でもいゝ!
思想も哲学もけいべつ[#「けいべつ」に傍点]してしまった
白いベンチの女の上に
臭い接吻でも浴びせてくれ
一つの現実は
しばし飢えを満たしてくれますからね。
[#ここで字下げ終わり]
家に帰える事が、むしょうに厭になった。
人間の春秋《くらし》とは、かくまでも佗しいものか! ベンチに下駄をぶらさげたまゝ転がると、星があんまりまともに見えすぎる。
星になった女!
星から生れた女!
頭がはっきりする事は、風が筒抜けで、馬鹿のように悲しくなる。
夜更け。馬に追われた夢を見る。
隣室の××頭痛し。
二月×日
朝から雪混りの雨。
寝床で当にもならない原稿を書いていると、十子遊びに来る。
「私どこへも行く所なくなったのよ、二三日泊めてくれない?」
羽根のもげたこおろぎ[#「こおろぎ」に傍点]のような彼女の姿体から、押花のような匂いをかいだ。
「お米も何もないのよ、それでよかったら何日でも泊っていらっしゃい。」
「カフェーの客って、みんなジユウ[#「ジユウ」に傍点]ね、××と鼻ばかり赤かくしていて、真実なんて爪の垢ほどもありゃアしないんだから……。」
「カフェーの客でなくたって、いま時は、物々交換でなくちゃ……せち辛いのよ。」
「あんなとこで働くの、体より神経の方が先に参いっちゃうわね。」
十子は、帯を昆布巻きのようにクルクル巻くと、枕のかわりにして、私の裾に足を延ばして蒲団へもぐ
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