い服装で、涼し気だった。
下の妻君に五円借りる。
尾道まで七円くらい、やっと財布をはたいて切符を買うと、座席を取ってまず指を折った。
――何度目の帰郷だろうか!
[#ここから2字下げ]
露草《つゆくさ》の茎
粗壁《かべ》に乱れる
万里の城
[#ここで字下げ終わり]
何かうらぶれた感じが深い。昔つくった自分の詩のアタマ[#「アタマ」に傍点]を思い出した。
何もかも厭になってしまうが、さりとて、ニヒルの世界は道いまだ遠し。
此生ぐさニヒリストは、腹がなおる[#「なおる」に傍点]と、じき腹がへる[#「へる」に傍点]し、いゝ風景を見ると、呆然としてしまうし、良い人間に出くわすと、涙を感じるし――。
バスケットから、新青年の古いのを出して読む。
面白き笑話ひとつあり――。
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――囚人曰く、「あの壁のはりつけ[#「はりつけ」に傍点]の男は誰ですか?」
――宣教師答えて、「我等の父キリストなり。」
囚人が出獄して病院の小使いにやとわれると、壁に立派な写真が掛けてある。
――囚人、「あれは誰のです?」
――医師、「イエスの父なり。」
囚人、淫売婦を買って彼女の部屋に、立派な女の写真を見て――
――囚人、「あの女は誰だね。」
――淫売婦、「あれはマリヤさ、イエスの母さんよ。」
そこで囚人は歎じて曰く、子供は監獄に父親は病院に、お母さんは淫売宿にあゝ――。
[#ここで字下げ終わり]
私はクツクツ笑い出してしまった。急行でもない閑散な夜汽車に乗って退屈しているとこんなにユカイ[#「ユカイ」に傍点]なコントがめっかった。
眠る。
七月×日
久し振りで見る旅の古里の家。
暑くなると、妙に気持ちが焦々して、シュンと気が小さくなるよ。どこともなく老いて憔悴している母が、第一番に言った言葉は、
「待っちょったけん! わしも気がこもう[#「こもう」に傍点]なって……。」
キラキラ涙ぐんでいた。
今夜は海の祭、おしょうろ[#「おしょうろ」に傍点]流しの夜だ。
夕方東の窓を指さして、母が私を呼ぶ。
「可哀そうだのう、むごかのう……。」
二十号大に区切った窓の風景の中に、朝鮮牛がキリキリぶらさがっている。鰯雲がむくむくしている波止場の上に、ドカンと突き揚った黒い起重機! その頂点には一匹の朝鮮牛が、四足をつっぱって、ヴァウ! ヴァウ唸っていた。
「あいば[#「あいば」に傍点]見ると、食べられんのう……。」
雲の上にぶらさがってあの牛は、二三日の内に屠殺されて、紫の印を押される事を考えているのか知ら……それとも故郷の事を、友達の事を……。
視野を下に降ろすと、古綿のような牛の群が、甲板の檻の中で唸っている。
鰯雲が、かたくりのように筋を引くと、牛の群も去り起重機も腕を降ろして夕べの月仄かな海の上に、もう二ツ三ツおしょうろ[#「おしょうろ」に傍点]船が流れていた。
火を燃やしながら、美し紙船が、涯木を離れて沖へ出た。
港には古風な伝馬が密集している。火の紙船が、月の様に流れ行く。
「牛を食ったり、おしょうろ[#「おしょうろ」に傍点]を流したり、人間も矛盾が多いんですねお母さん。」
「そら人間だもん……。」
古里はいゝナ――
[#改ページ]
寝床のない女
二月×日
黄水仙の花には、何か思い出がある。
窓をあけると、隣の家の座敷に灯がついて、黒い卓子《テーブル》の上に黄水仙が猫のように見えた。
階下の台所から、夕方の美味《うま》そうな匂いと音がする。
二日も飯を食えないジンジンする体を、三畳の部屋に横たえている事は、まるで古風なラッパのように埃っぽく悲しくなる。生※[#「さんずい+垂」、235−7]が煙になって、みんな胃のふ[#「胃のふ」に傍点]へ逆もどりだ。
ところで呆然《ぼんやり》としたこんな時の空想は、まず第一に、ゴヤの描いたマヤ夫人の乳色の胸の肉、頬の肉、肩の肉、酢っぱいような、美麗なものへ、豪華なものへの反感! が、ぐんぐん血の塊のように押し上げて、私の胃のふ[#「胃のふ」に傍点]は、旅愁にくれてしまった。
外へ出る。
町には魚の匂いが流れている。
公園に出ると、夕方の凍った池の上を、子供達がスケート遊びをしていた。
固い飯だって関いはしないのに、荒れてザラザラした唇には、公園の風は痛すぎる。子供のスケート遊びを見ていると、妙に切ぱ詰った思いになって、涙が出る。どっかへ石をぶっつけてやりたいな。
耳も鼻も頬も桃のように紅くした子供の群が、束子《たわし》でこするように、キュウキュウ厭な音をたてゝ、氷の上をすべっている。
一縷の望みを抱いて百瀬[#「百瀬」に傍点]さんの家へ行く。
留守。
知った家へ来て、寒い風に当る事は、余計腹がへって苦しい。留守居
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