[#ここで字下げ終わり]
 かつて好きだった歌ほれぼれ涙におぼれて、私の体と心は遠い遠い地の果にずッ……とあとしざりしだした。

 そろそろ時計のねじがゆるみ出すと、れいの月はおぼろに白魚の[#「月はおぼろに白魚の」に傍点]声色屋のこまちゃくれた子供が、
「ねえ旦那! おぼしめしで……ねえ旦那おぼしめしで……。」
 もうそんな影のうすい不具なんか出してしまいなさい!
 何だかそんな可憐な子供達のさゝくれたお白粉の濃い顔を見ていると、たまらない程、私も誰かにすがりつきたくなった。

 十一月×日
 奥で三度三度御飯を食べると、きげんが悪いし、と云って客におごらせる事は大きらいだ。
 二時がカンバン[#「カンバン」に傍点]だって云っても、遊廓がえりの客がたてこむと、夜明までも知らん顔をして主人はのれんを引っこめようともしない。
 コンクリートのゆかが、妙にビンビンして動脈がみんな凍ってしまいそうに肌が粟立ってくる。
 酢っぱい酒の匂いがムンムンして焦々する。
「厭になってしまうわ……。」
 初ちゃんは袖をビールでビタビタにしたのをしぼりながら、呆然とつっ立っていた。
「ビール!」
 もう四時も過ぎて、ほんとになつかしく、遠くの方で鶏の鳴く声がする。
 コケコッコオ! ゴトゴト新宿駅の汽車の汽笛が鳴ると、一番最後に、私の番で、銀流しみたいな男がはいって来た。
「ビールだ!」
 仕方なしに、私はビールを抜くと、コップに並々とついだ。厭にトゲトゲと天井ばかりみていた男は、その一杯のビールをグイと呑み干すと、いかにも空々しく、
「何だ! ゑびすか、気に喰わねえ。」
 捨ぜりふを残すと、いかにもあっさりと、霧の濃い舗道へ出てしまった。唖然とした私は、急にムカムカとすると、のこりのビールびんをさげて、その男の後を追った。
 銀行の横を曲ろうとしたその男の黒い影へ私は思い切りビールびんをハッシと投げつけた。
「ビールが呑みたきゃ、ほら呑ましてやるよッ。」
 けたゝましい音をたてゝ、ビールびんは、思い切りよく、こなごなにこわれて、しぶきが飛んだ。
「何を!」
「馬鹿ッ!」
「俺はテロリストだよ。」
「へえ、そんなテロリストがあるの……案外つまんないテロリストだね。」
 心配して走って来たお君ちゃんや、二三人の自動車の運転手達が来ると、面白いテロリストはボアンと路地の中へ消えてしまった。
 こんな商売なんて止めようかなア……。
 そいでも、北海道から来たお父さんの手紙には、御難つゞきで、今は帰る旅費もないから、送ってくれと云う長い手紙を読んだ、寒さにはじきへこたれるお父さん、どんなにしても四五十円は送ってあげよう。
 も少し働いたら、私も北海道へ渡って、お父さん達といっそ行商してまわってみようか……。
 のりかゝった船だよ。

 ポッポッ湯気のたつおでん[#「おでん」に傍点]屋の屋台に首を突込んで、箸につみれ[#「つみれ」に傍点]を突きさした初ちゃんが店の灯を消して一生懸命茶飯をたべていた。
 私も昂奪した後のふるえを沈めながら、エプロンを君ちゃんにはずしてもらうと、おでんを肴に、寝しなの濁り酒を楽しんだ。[#地から2字上げ]――一九二八・一二――
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   一人旅

 十二月×日
 浅草はいゝ。
 浅草はいつ来てもよいところだ……。

 テンポの早い灯の中をグルリ、グルリ、私は放浪のカチウシャ。
 長い事クリームを塗らない顔は瀬戸物のように固くって安酒に酔った私は誰もおそろしいものがない。

 テへ! 一人の酔いどれ女でござんす。

 酒に酔えば泣きじょうご、痺れて手も足もばらばらになってしまいそうなこのいゝ気持。
 酒でも呑まなければあんまり世間は馬鹿らしくて、まともな顔をしては通れない。

 あの人が外に女が出来たとて、それが何であろ、真実は悲しいんだけど、酒は広い世間を御らんと云う。
 町の灯がふっと切れて暗くなると、活動小屋の壁に歪んだ顔をくっつけて、あゝあすから勉強しようと思う。
 夢の中からでも聞えて来るような小屋の中の楽隊にあんまり自分が若すぎて、なぜかやけくそにあいそがつきてしまう。
 早く年をとって、いゝものが書きたい。
 年をとる事はいゝな。
 酒に酔いつぶれている自分をふいと見返ると、大道の猿芝居じゃないが、全く頬かぶりして歩きたくなる。

 浅草は酒を呑むによいところ。
 浅草は酒にさめてもよいところだ。

 一杯五銭の甘酒! 一杯五銭のしる粉! 一串二銭の焼鳥は何と肩のはらない御馳走だろう……。
 漂々と吹く金魚のような芝居小屋の旗、その旗の中にはかつて愛した男の名もさらされて、わっは……わっは……あのいつもの声で私を嘲笑している。
 さあ皆さん御きげんよう……何年ぶりかで見上げる夜空の寒いこと、私の肩掛は
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