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 ――放浪記を愛読して下さいます方へ! 私の放浪記が一冊にまとまって、改造社から近刊されます。一人でも沢山の方が読んで下さいましたら、うれしゅうございます。これは筆者からのお願い。――
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   雷雨

 七月×日
 胸の凍るような佗しさだ。
 夕方、頭の禿げた男の云う事に、「俺はこれから女郎買いに行くのだが、でもお前さんが好きになったよ、どう……。」私は白いエプロンをクシャクシャにまるめて、涙を口にくゝむんだ。
「お母アさん! お母アさん!」
 何もかも厭になって、二階の女給部屋の隅に寝ころぶ。鼠が群をなして這っている。
 暗らさが瞳に沈むと、雑然《ごろ/\》と風呂敷包みが墓場の石塊のように転がって、寝巻や帯が、海草のように壁に乱れている。
 煮えくり返えるような階下の雑音の上に、おばけでも出て来そうに、シンと女給部屋は淋しい。
 ドクドク流れ落ちる涙が、ガスのようにシュウシュウ抜けて行く。悲しみの氾濫、何か正しい生活にありつきたい。
 何か落ちついて本が読みたい。

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しゅうねん強く
家の貧苦・酒の癖・遊怠の癖
みなそれだ
ああ、ああ、ああ、

切りつけろそれらに
とんでのけろ、はねとばせ
私が何べん叫びよばった事か、苦しい、
血を吐くように芸術を吐き出して狂人のように踊りよろこぼう。
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 槐多はかくも叫びつゞけている。こんなうらぶれた思いの日、チェホフよ、アルツイバァセフよ、シニツラァ、私の心の古里を読みたい。働くと云う事を辛いと思った事はないが、今日ほど、今こそ字がなつかしい。だが今は皆お伽話の人だ。
 薄暗がりの風呂敷の中に、私は直哉の和解[#「和解」に傍点]を思い出した。
 こんなカフェーの雑音《おと》に巻かれると、日記をつける事さえ、おっくうになって来る。
 まず雀が鳴いているところ、朗らかな朝陽がウラウラ光っているところ、陽にあたって青葉の音が色が、雨のように薫じているところ……槐多ではないが、狂人のように、一人居の住居が、イマ! イマ! 慾しくなった。
 十方空しく御座候だ! 暗いので、只じっと瞳をとじている。
「オイ! ゆみちゃんはどこへ行ったんだい!」階下でお上さんが呼んでいる。
「ゆみちゃん居るの……お上さんが呼んでゝよ。」

「歯が痛いから寝てるって云って下さい。」
 八重ちゃんが乱暴に階下へ降りて行くと、漠々とした当のない、痛い痛い気持ちが、ふくらがって、いっそ死んでしもうたなら[#「いっそ死んでしもうたなら」に傍点]と唄い出したくなる。
 メフィストフェレスがそろそろ踊り出したぞ! 昔おえらいルナチャルスキイとなん申します方が、云ってござる。
 ――生活とは何ぞや? 生ける有機体とは何ぞや? ルナチャルスキイならずとも、生活とは何ぞや! 生ける有機体とは何ぞや! 落ちたるマグダラのマリヤ! ワッハ ワッハ。
 死ぬんだ!
 死ぬんだ!
 自己保存の能力を叩きこわしてしまうのだ。私は頭の下に両手を入れると、死ぬる空想をした。毒薬を呑む空想をした。
「お女郎買いに行くより、お前が好きになった。」何と人生とはくだらなく[#「くだらなく」に傍点]朗らかな事であろう――。

 どうせ故郷もない私だ、だが一人のお母さんの事を思うと、切なくなる。泥棒になってしまおうかしら、女馬賊になってしまおうかしら……。別れた男達の顔が熱い瞼に押して来る。
「オイ! ゆみちゃん、女給が足りない事よく知ってんだろう。少々位は我慢して階下へ降りとくれよ。」お上さんは声をとがらして、梯子段を上って来る。
 あゝ何もかも、一切合財が煙だ。砂だ、泥だ。私はエプロンの紐を締めなおすと、陽気に唄をくゝみながら、海底のような階下の雑音《おと》へ流れて行った。

 七月×日
 朝から雨。
 造ったばかりのコートを貸してやった女は、とうとう帰って来なかった。一夜の足留りと、コートを借りて、蛾のように女は他の足留りへ行ってしまった。
「あんた人がいゝのよ、昔から人を見れば泥棒と思えって言葉があるじゃないの。」
 八重ちゃんが、白いくるぶし[#「くるぶし」に傍点]を掻きながら私を嘲笑っている。
「ヘエ! そんな言葉《あれ》があったのかね。じゃ私も八重ちゃんの洋傘《パラソル》でも盗んでドロンしちゃおうかなア。」
 私がこう言うと、寝ころんでいた、由ちゃんが、「世の中が泥棒ばかりだったら痛快だわ……。」
 由ちゃんは十九、サガレンで生れたのだと云って白い肌が自慢だった。八重ちゃんが肌を抜いでいるかば[#「かば」に傍点]色の地に、窓ガラスの青い雨の影が、キラキラ写っている。煙草のけむり、女の呆然《けむり》。
「人間ってつまらないわね。」
「でも木の方がよっ
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