している間に、私の番が来た。桃色の吸取紙みたいなカードを渡すと、月給参拾位い……受付女史はこうつぶやくと、私の体を見て、まずせゝら笑って云った。
「女中じゃいけないの? 事務員なんて、学校出がウヨウヨいるんだから……女中なら沢山あってよ。」
後から後から美しい女の花束、真にごもっともさまで私の敵ではない。疲れた彼女達の中にも、冬らしい仄かな香水の匂いがする。
得るところなし。
紹介状は、墨汁会社と、ガソリン嬢。伊大利大使館の女中。
ふところには、もう九拾銭あまりしかない、夕方宿へ帰えると、街に働きに出る芸人達が、縁側の植木鉢みたいに並んで、キンキンした鼠色のお白粉を塗りたくっている。
「昨夜《ゆうべ》は二分しかうれなかった。」
「やぶにらみじゃ買い手がねえや!」
「これだって好きだって人があるんだからね。」
「はい御苦労様か……。」
十四五の少女《むすめ》同志のはなし。
十二月×日
ワッハ ワッハ ワッハ 井戸つるべ、狂人になるような錯覚がおこる。マッチをすって眉ずみをつける。
午前十時。
麹町三年町の伊大利大使館へ行く。
笑って暮らしましょう。
顔がゆがみまする。
黒人の子が馬に乗って出て来た。門のそばにこわれた門番の小屋みたいなのがあって、白と蒼と青との風景、砂利が遠くまでつゞいて、所詮は私のような者の来るところでもなさそうだ。
地図のある、赤いジュウタンの広い室に通されると、白と黒のコスチウム、異人の妻君って美しい、遠くで見るとなお美しい。さっき馬で出て行った男の子が鼻を鳴らしながら帰えって来た。
男の異人さんも出て来たが、大使ではなく、書記官だとかって事だ。夫婦共脊が高くてアッパクを感じる。
その白と黒のコスチウムをつけた夫人に、コック部屋を見せてもらう。コンクリートの箱の中に玉葱がゴロゴロしていて、七輪が二ツ置いてあった。此七輪で、女中が自分の食べるのだけ煮たきするのだと云う。まるで廃屋のような女中部屋、黒いよろい戸がおりていて、石鹸のような外国の臭いがする。
結局ようりょう[#「ようりょう」に傍点]を得ないで門を出る。ゴウソウな三年町の邸町を抜けて坂を降りると、吹き上げる十二月の風に、商店の赤い旗がヒラヒラ暮れ近かく瞳にしみた。
人種が違っては人情も判りかねる。どこか他を探して見様かしら。
電車に乗らないで濠ばたを歩いていると、国へ帰りたくなった。目当《めあて》もないのにウロウロ東京で放浪したところで、結局どうにもならない。電車を見ていると死ぬる事を考える。
本郷の前の家へ行く。叔母さんつめたし。
近松氏から郵便来ている。出る時に、十二社の吉井勇さんのところに女中がいるから、ひょっとしたら、あんたを世話してあげると云う、先生の言葉だったが、薄ずみで書いた断り状だった。
夕方新宿の街を歩いていると、妙に男の人にすがりたくなった。
誰か助けてくれる人はないかなア……新宿駅の陸橋に紫色のシグナルがチカチカゆれているのを見ると、涙で瞼がふくらんで、子供のようにしゃっくり[#「しゃっくり」に傍点]が出た。
当ってくだけてみよう――。
宿の叔母さんに正直に話しする。仕事がみつかるまで、下で一緒にいていゝと云ってくれた。
「あんた、青バスの車掌さんにならないかね、いゝのになると七拾円位いはいるそうだが……。」
どこかでハタハタ[#「ハタハタ」に傍点]でも焼いているのか、とても臭いにおいが流れて来る。七拾円もはいれば素的だ。ブラさがるところをこしらえなくては……。十燭の電気のついた帳場の炬燵にあたって、お母アさんへ手紙を書く。
――ビョウキシテ、コマッテ、イルカラ、三円クメンシテ、オクッテクダサイ。
此間の淫売婦が、いなりずし[#「いなりずし」に傍点]を頬ばりながらはいって来る。
「おとついはひどいめに会った! お前さんもだらしがないよ。」
「お父つぁん怒ってた?」
電気の下で見ると、もう四十位の女で、バクレン[#「バクレン」に傍点]者らしい崩れた姿をしていた。
「私の方じゃあんなのを梟と云って、色んな男を夜中に連れこんで来るんだが、あんまり有りがたい客じゃないんですよ。お父つぁん油しぼられて、プンプン怒ってますよ。」
人の好さそうな老いたお上さんは、茶を入れながら、あの女をのゝしっていた。
夜うどん[#「うどん」に傍点]をたべる。
明日はこゝの叔父さんの口ぞえで青バスの車庫へ試験うけに行ってみよう……。
電線が鳴っている。
木賃|宿街《ホテルガイ》の片隅に、此小さな女は汚れた蒲団に寝ころんで、壁に張ってある、大黒さんの顔を見ながら雲の上の御殿のような空想をする。
国へかえってお嫁さんにでも行こうかしら。――
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